亀井勝一郎『大和古寺風物詩』あらすじと感想~奈良巡りの必読書!仏像の見方が変わる名著!

亀井勝一郎『大和古寺風物詩』あらすじと感想~奈良巡りの必読書!仏像の見方が変わる名著
今回ご紹介するのは1943年に亀井勝一郎によって発表された『大和古寺風物詩』です。私が読んだのは新潮社版平成20年第80刷版です。
早速この本について見ていきましょう。
鋭い文明批評で知られた著者の大和巡礼記。85刷80万部、今も読み継がれる名著。
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1300年の昔、新しく渡来した信仰をめぐる飛鳥・白鳳の昏迷と苦悩と法悦に満ちた祈りから、やがて天平の光まどかなる開花にいたるまで、三時代にわたる仏教文化の跡をたずねる著者の、大和への旅、斑鳩(いかるが)の里の遍歴の折々に書かれた随想集。傷ついた自我再生の願いをこめた祈りの書として、日本古代の歴史、宗教、美術の道標として、また趣味の旅行記として広く愛読される名著である。

私が本書を手に取ったのは前回の記事で紹介した太田信隆著『まほろばの僧 高田好胤』の次の一節がきっかけでした。
好胤は、
「奈良の古寺について書かれた本で、一冊だけ推薦せよ、といわれたら、ためらわずに亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』をあげる」
と語ったことがあった。
『大和古寺風物誌』には、薬師寺を訪れた印象が記されている。東塔について、こう書いてある。
「東塔は周知のごとく三重塔ではあるが、各層に裳層がついているので六重塔のようにみえる。そしてこの裳層のひろがりが塔に音調と陰翳を与えている。白鳳の祈念に宿る音楽性はここにもうかがわれるであろう」
東塔は、薬師寺で唯一つ、創建当時の白鳳の様式を伝える建物である。たいていの古寺の塔は、一層目の屋根が大きくて、上に行くにしたがって、しだいに小さくなっていく。ところが薬師寺の東塔は各層の屋根に裳階がついているので、六重塔のように見える。その軒の出入りが一種のリズムを生んで、塔に軽快感を漂わせている。調和と均整がとれていて律動感に満ちている。日本の仏塔の中で、もっとも美しい形であるということには、誰も異論はない。
草思社、太田信隆『まほろばの僧 高田好胤』258-259
薬師寺を再建した名僧高田好胤師がこれほど絶賛した『大和古寺風物詩』。高田好胤師がこれほどまでに絶賛するならばぜひ読んでみたい。というわけで勇んでこの本を手に取ってみたのでありました。
そしてそれは大当たり!読んですぐにわかりました。これは名著中の名著です!
まず、文章が美しい・・・!
この本の中でも特に私が感銘を受けた箇所をぜひご紹介したいです。
次の箇所は法隆寺の百済観音像に対する思いを述べた箇所になります。では、早速読んでいきましょう。
百済観音の前に立った刹那、深淵を彷徨うような不思議な旋律がよみがえってくる。灰暗い御堂の中に、臼焔がゆらめき立ち昇って、それがそのまま永遠に凝結したような姿に接するとき、我々は沈黙する以外にないのだ。その白焔のゆらめきは、おそらく飛鳥びとの苦悩の旋律でもあったろう。美術研究のために大和を訪れるなどは末のことで、仏像は拝みに行くものだと、そのときはじめてこの単純な理を悟った。私は信仰あつい仏教徒ではない。しかし茫然と立って、心の中ではつい拝んでしまうのである。
亀井勝一郎、『大和古寺風物詩』新潮社版平成20年第80刷版P55

白焔のゆらめき・・・
何ということでしょう!百済観音像を表すのにこれ以上の表現があるでしょうか。私も以前法隆寺でこの仏像を見ています。亀井勝一郎の言葉を読んだ時、くしくも私の脳内で本当に「ゆらめく白焔」たる百済観音像が姿を現したのです!これは衝撃でした。
私も文章を書く人間です。そういう人間にとって、「この他にはありえない完璧な表現」は憧れです。一度でいいからそんな言葉を掘り当ててみたいという思いが私の中にはあります。亀井勝一郎の「白焔のゆらめき」はまさにそうした完璧な言葉でした。私はこの言葉に完全に撃ち抜かれてしまいました。
くしくも私はこの本を読んだ直後、実際に法隆寺で百済観音と再会しています。この見事な仏像を目の前にして、「白焔のゆらめき」と表現した亀井に改めて脱帽するしかありませんでした。
それにしても、この百済観音の素晴らしさたるや・・・!
私もこの仏像を前に恍惚とするしかありませんでした。本書で亀井は仏像を美術鑑賞の対象として見るのではなく、信仰の対象として、つまり手を合わせて観るものであるということを強く述べています。私もそれに倣い、手には数珠を持ちこの日出会った仏像に対し合掌してお参りしました。
本書『大和古寺風物詩』は「白焔のゆらめき」をはじめとした美しい言葉がその大きな柱でありますが、もう一つ大きな特徴としてこの仏像に対する姿勢への提言があります。
美術の様式論をもって仏像を鑑賞するという当世流行の態度が、一切を誤ったと云えないだろうか。仏像は彫刻ではない。仏像は仏である。仏像を語るとは、仏を語るという至難の業である。そこには仏の本願のみならず、これを創り、祀り、いのちを傾けて念じた古人の魂がこもっている筈だ。それに通ずるためには我々もまた祖先のごとく、伏して祈る以外にないであろう。この祈りの深まるにつれて、仏像は内奥に宿る固有の運命を、悲願を、我々に告げるのであろう。この唯一の根本が忘れ去られたところに、現代の古美術論が成立っている。ルネッサンス以来の西洋美術に関する知識が流入してから、仏は人身にひきさげられ、美術館のガラス箱に陳列され、「教養ある人士」の虚栄となった。彼らは古仏を目して彫刻とよび、微に入り細を穿って様式を論じ、比較研究し、無遠慮にこれを写して公衆の面前にさらす。伝統からいえは奇怪事である。
私の大和古寺巡礼は、一面からいえばかかる状態からの脱却でもあった。そのための修練を私はひそかに自分に課した。むしろ仏像が私に迫ったと云った方がいい。そして唯信に面して、道のいよいよ遠いのを嘆かないわけにゆかなかったのであるが、いま不空絹索観音の前に立ってやはり同じ嘆きを覚ゆる。天平といえばわが史上の黄金時代である。「咲く花の薫ふがごとく今盛なり」と歌われたみ代に、何故このみ仏は受難の相貌を呈しているのであろう。何故、口辺の美しい微笑は消え去ったのか。あの強烈な合掌にこもる願いを、またそこに祈念した天平人の思いを、私は正しく身に享けたいと思う。そういうとき私は一切の美術書を棄てて歴史と経文へ赴くのである。即ち人間の悲願の存するところへ。それのみが仏にいたる唯一の道であろう。
亀井勝一郎、『大和古寺風物詩』新潮社版平成20年第80刷版P182-183
仏像は芸術鑑賞か信仰の対象か。
これは非常に重要な問題です。
亀井は「教養的な」芸術鑑賞として仏像を見るべきではないとこの本で述べます。仏像は信仰の対象であり、そうした信仰から切り離して芸術作品としてのみ取り扱おうとするあり方は間違っているのではないかと述べるのです。
この論については長くなってしまいますのでここではこれ以上はお話しできませんが、仏像がお堂の信仰対象として安置されるのではなく、博物館のガラスケースに展示品として置かれていることにも話は及びます。恥ずかしながら、私は本書を読むまで仏像を見ることに対し、信仰か芸術鑑賞かということは考えたことすらありませんでした。私は中学生くらいから仏像が好きでした。なので仏像はずっと見てきています。ですがこうした信仰か芸術鑑賞かという問いは想像すらしていませんでした。ただただその仏像に引き込まれていたというのが私なりの仏像との付き合い方だったように思います。
しかし本書を読み「芸術鑑賞か信仰対象か」という強烈な命題が私の中に植え付けられました。一度この命題を知ってしまった以上、何も知らなかった頃の私には戻れません。私はこれから先仏像の前に立つ度にきっとこの命題を思い返すことでしょう。これはこれからの私の課題になると思われます。先ほど私が数珠を持って百済観音にお会いしたと述べたのもまさにこの亀井の言葉が伏線だったのでした。
この亀井の「芸術鑑賞か信仰か」という命題については碧海寿広著『仏像と日本人』でわかりやすく解説されていますので、ぜひセットで読まれることをおすすめします。実はこの亀井の『大和古寺風物詩』は和辻哲郎のベストセラー『古寺巡礼』と対の存在として読まれてきた作品でもあります。この和辻の芸術鑑賞、教養としての姿勢が亀井にこの命題を語らせたとも言えるのです。私も実際に『古寺巡礼』をこの後読んだのですが、亀井がなぜ執拗に芸術鑑賞や教養的態度を否定するのかがよくわかりました。
『大和古寺風物詩』、『仏像と日本人』『古寺巡礼』この3冊はぜひセットで読まれることをおすすめします。より深く亀井の言わんとしていることが納得できること間違いなしです。
それにしても『大和古寺風物詩』の言葉の美しさ、亀井の熱い思いには撃ち抜かれました。もはや私の奈良巡礼のバイブルです。
「奈良へ行きたい、奈良に興味のある方」にぜひおすすめしたい名著です。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「亀井勝一郎『大和古寺風物詩』あらすじと感想~奈良巡りの必読書!仏像の見方が変わる名著!」でした。
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