⑼比叡山の高度な学問と驚くべき勉強量だった貴族出身の僧侶たち~比叡山堕落説は本当だったのか

【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】⑼ 比叡山の高度な学問と驚くべき勉強量だった貴族出身の僧侶たち~比叡山堕落説は本当だったのか
前回の記事では僧兵による強訴と、それに至るまでの比叡山の歴史をお話ししました。

今回の記事ではそこからさらに比叡山の実態に迫っていきたいと思います。
さて、前回の記事の後半で上流貴族が比叡山に入ってきたことで比叡山が第二の世俗世界へと変わってしまったというお話をしましたが、このことについて従来では「比叡山の堕落」と批判されることが多々ありました。僧兵が暴れ、上流貴族がコネで高僧になり真摯な仏道が失われたという批判ですね。たしかに僧兵が暴れていたのは事実です。ですが、これまで見てきましたようになぜ彼らが生まれてきたのかを考えると、単に私利私欲で暴れていたというのは真実とは言い難いものがあります。また、貴族出身の僧侶のせいで比叡山が堕落したというのも正確とは言えません。むしろ彼らのおかげで比叡山仏教の水準は急激に上昇した側面もあったのです。
「え!?」と思われるかもしれませんがこれが近年の歴史学で明らかになった現実の比叡山の姿なのです。これは僧侶である私がお話しするより、実際に歴史学者の声を聞いた方が説得力があるかと思います。
これから引用するのは歴史学者、平雅行氏による『改訂 歴史のなかに見る親鸞』の解説になります。少し長くなりますが当時の比叡山の様子を知るのにこの上ない内容となっていますのでじっくりと読んでいきます。ちなみにですが、平氏の解説に出てくる顕密仏教というのは比叡山や興福寺など当時主流だった仏教のことを指します。では読んでいきましょう。
真宗史や浄土宗史の研究者は、法然や親鸞が延暦寺を飛び出したこともあって、この時代の延暦寺や顕密仏教を、強訴や戦争に明け暮れた退廃した存在として描く傾向があります。でも、その見方は一面的です。顕密仏教の内実は、想像以上に高度で豊かなものです(拙稿「中世延暦寺をどのように捉えるか」『叡山学院研究紀要』四二号、二〇二〇年)。たとえば、次のやりとりを見てみましょう。
「隣家の娘が男の子を産んだのですが、五月生まれは親に崇るといって、その子を捨てようとしています。せっかくの男の子でもありますので残念です。崇りの話は本当でしょうか。教えてください」。
「慈愛にみちたご質問、うれしく思います。捨子の件は、ぜひ止めてください。中国古典を調べると、孟嘗君・王鎮悪・田夫・王鳳のように、五月生まれで親の誉れとなった人が多数います。私の考えるところ、人の運命は生まれ月で決まるのではありません」。
十二世紀初め、京都東山の僧侶が著した『東山往来』に掲載されている生活相談です。それにしても、この回答はよくできています。典拠を示して迷信を否定し、自分の考えを述べて、対処法を指示しています。他にも、歯が生えて産まれた子を殺す風習や、鶏のタ鳴きは不吉なのか、といった質問が見えますが、そこでも古今の書物から数多くの実例を引いて、迷信を信じないよう説得しています。文献をもとに挙証する態度が、その合理性を支えていたことが分かります。これが中世の顕密仏教の実態でもありました。
この挙証主義は、本書だけの特徴ではありません。顕密仏教の世界で広く共有されていました。それを示すのが論義です。私たちは「朝まで生テレビ」のような討論番組を楽しみますが、この時代の貴族もそうでした。これが論義です。延暦寺や興福寺を代表する僧侶が、仏教のいろんなテーマについて、熱い討論を繰り広げました。
平安後期の院政時代には院権力が仏法興隆政策をとり、顕密仏教は大いに発展します。そのなかで表6のように、二会・四灌頂・三講といった国家的法会が整備されました。これが中世前期における顕密・仏教の基幹システムです。王権の主導によって、努力と才能によって昇進する道が整えられたのです。学僧たちは、それぞれの寺内法会で研鑽を積んだうえで、国家的法会の晴れ舞台で他寺の僧侶との論義に臨みました。弁舌の巧みな僧侶が人気を博すことになりますが、討論で活躍するには、経典解釈をめぐる学説が頭に入っていないといけません。ということで、彼らは日々、経典研究に精進しました。文献の博捜による挙証主義は、こうした経典研究のなかで培われたのです。『東山往来』に見える挙証主義も、こうしたなかから登場してきました。
中世では神仏が広く信じられていました。でも他方では、技術や知識の進歩にともなって、こうした信仰を冷ややかに見る目も着実に増えています。中世のすべての宗教は、こうした厳しい視線に耐えて、社会的信頼を勝ちとらなければなりません。合理的思考の取り込みは、不可欠なものでした。
合理性との関係は密教祈祷についても言えます。たとえば治病の場合、僧侶はただ加持祈祷をしていたのではありません。患者に漢方薬を与え養生の仕方を教え、本人に懺悔をさせたうえで祈禱を行いました。さまざまな医療技術を駆使しながら、祈祷を行ったのです。そのため寺院には多様な知識が集積されていました。たとえば延暦寺では、顕密諸宗のほか、儒学・和歌・兵法も教えていましたし、医学・薬学や農学・土木技術の専門家もいました。まさに知識の宝庫です。今でいえば総合大学のような存在、それが延暦寺であり、興福寺でした。顕密仏教はただの呪術ではなく、高い合理性を取り込んだ呪術でした(拙稿「中世仏教における呪術性と合理性」『国立歴史民俗博物館研究報告』一五七、二〇一〇年)。
顕密仏教が中世を通じて巨大な影響力を保つことができた理由が、ここにあります。かつて私たちは、院政時代の旧仏教では学問が衰えたと論じました。しかしそれは、鎌倉新仏教の清新さを際だたせるための暴論です。実態はむしろ正反対です。延暦寺にしても、顕密仏教にしても、そう簡単にバカにしてよいような、ちゃちな存在ではありません。顕密仏教は院政時代に大いに発展しますが、その隆盛は造寺造塔や寺領荘園の獲得だけでなく、経典研究の深化と拡充をもたらしました。そうしたなかから、宝池房証真のような偉大な仏教学者が誕生しています。証真の『天台三大部私記』六〇巻は、今でも天台教学の基礎とされるような重要な業績です。いまだに古びていません。このように王権による仏法興隆は、仏教文献学の高度な達成をもたらしました。
法蔵館、平雅行『歴史のなかに見る親鸞』P77-80
少し長くなってしまいましたがいかがでしょうか。驚かれた方も多いのではないかと思います。ここで語られましたように、親鸞が修行していた比叡山はこのような高度な仏教が花開いた時期でもあったのです。たしかに僧兵が暴れ、山内の政治対立もありはしましたが、懸命に仏道に打ち込んでいた僧侶がたくさんいたのも事実なのです。
そして上の解説の直後、平氏は次のような決定的な指摘をしています。
法然や親鸞が延暦寺でどのような学問を勉強したのか、具体的なことは分かりません。しかし法然の『選択本願念仏集』、親鸞の『教行信証』の独創性は仏教文献学の高度な蓄積のなかから誕生した、このことだけは明言することができます。『選択集』のなかで展開される問答は、顕密仏教の論義スタイルそのものです。また写真1をみると、経典の一つひとつの文言について、これまでどういう解釈がなされてきたのか、そのメモが上下の欄外や行間にびっしり書き込まれています。これは、当時の仏教文献学の典型的な勉強の仕方です。ピカソの独創的な絵が彼の正確なデッサン力をベースにしていたように、親鸞の独創的な経典解釈の土台を作ったのは、院政時代の顕密仏教における仏教文献学の達成でした。法然や親鸞は、顕密仏教の腐敗と堕落のなかから登場したのではありません。顕密教学の達成の最先端から、彼らの思想が誕生しました。仏教観が根本的に異なっていたため、顕密仏教と専修念仏が折り合うことはありませんでしたが、双方の論戦は今から見ても非常に高度なものです。
法蔵館、平雅行『歴史のなかに見る親鸞』P81-83

上の引用に出ていた写真1とは異なるのですが、こちらが親鸞直筆の『観無量寿経註』です。画像が荒くて申し訳ないのですが、親鸞がびっしりと文字を書き加えていることがよくわかると思います。親鸞のこうした書き方は真宗界隈では「親鸞のすごさ」として語られることが多いのですが、実はこうした勉強法は比叡山の学僧の基本スタイルだったのです。
こうした意味でも比叡山の高度な学問体系が親鸞を育てたというのは間違いないことでしょう。平氏の「法然や親鸞は、顕密仏教の腐敗と堕落のなかから登場したのではありません。顕密教学の達成の最先端から、彼らの思想が誕生しました。」という言葉は非常に重要な指摘であると私は思います。
そしてもう一人の歴史学者上島享氏の次の指摘には私も痺れました。ぜひこちらもご紹介したいです。
院政期以降、寺内での身分は世俗での出身身分にほぼ対応し、寺院の世俗化が進んでいく。それにともない、竪義をはじめとする諸法会が持っていた、学僧の教学研鑽の場としての意味が形骸化したようにみえる。
しかし、貴種・良家出身者は若くして三講など朝廷の論義会の講師を勤めるが、講師は南都・天台の学僧や公卿など多くの者が見守るなかで、自己の経論解義能力を披露するわけで、僧侶としての資質そのものをさらけ出すことになる。良家出身者でもその勉強量は驚く程で、彼らは日常的に竪義を頂点とする寺内の論義会で研鑽を積んでいた。また、貴種には、しかるべき学僧が師範となり指導にあたっていた。
院政期以降、寺内では世俗身分に対応した僧侶養成が図られるが、経論解義を重視した養成が行われていたことには変わりない。貴種であれ、「学」の研鑽を積み宗教者としての資質を備えていてはじめて学僧たりえたことを忘れてはならない。
名古屋大学出版会、上島享『日本中世社会の形成と王権』P448-449
いくら上流貴族の息子だからといって、僧侶として厳しい研鑽を積んでいなければ僧侶として認められない世界があったのです。貴族に生まれたから楽して安穏としていられるなどという甘い世界ではなかったのです。
それこそ「貴種・良家出身者は若くして三講など朝廷の論義会の講師を勤めるが、講師は南都・天台の学僧や公卿など多くの者が見守るなかで、自己の経論解義能力を披露するわけで、僧侶としての資質そのものをさらけ出すことになる。」という著者の指摘は僧侶である私にとっては痛いほどわかります。
私は貴種でも何でもありませんが、儀式執行というのはとにかくおっかないものです。多くの人が見ている中で絶対にミスすることができない緊張感・・・。しかも朝廷の最高レベルの儀式の内容となるとその難易度は想像するだけでめまいがします。これは並みの鍛錬でできるものではありません。
また、上の平氏の指摘にもありましたように、論議には深い学識が要求されます。付け焼刃の知識では全く太刀打ちできません。だからこそ「良家出身者でもその勉強量は驚く程」だったのでしょう。
それに、そもそもですが、良家に生まれたということは幼い頃から超一流の教師による英才教育が施されていたはずです。つまり、お寺に入る前からかなりの教養や勉学の基礎体力がついていたことでしょう。その状態でさらに高僧から仏教教学を叩き込まれるのですからそれはとてつもないレベルに到達してもおかしくありません。
読み書きもできず、基礎教養もない人間が出家して学んだところで、その差はスタート地点から歴然としたものがありましょう。これでは良家の子弟が位の高い僧侶になるのもこれは仕方ありません。もちろん、だからこそそうした学問の場を離れて修行者として名を馳せたり、民衆の近くで布教する僧侶が現れてくるわけでもあります。
いずれにせよ、比叡山ではこのように高度な仏教研究が展開され、修行も熱心に行われていたのでした。僧兵の暴力や政治抗争も比叡山の一側面ですが、懸命に修学に励む僧侶たちも数多くいたというのも比叡山の姿なのです。
そしてその中でも特に優れた僧侶として挙げられるのが慈円になります。
そうです。親鸞の師匠とされてきたあの慈円なのです。
比叡山のトップたる天台座主であり、さらに歴史書『愚管抄』を執筆し、和歌の達人としても名を馳せた慈円。
彼は僧兵暴れる比叡山の中で真の仏道を追い求めた修行者でもありました。次の記事ではそんな慈円という偉大なる天台僧侶についてお話ししていきます。これほど優れた人物がいたにも関わらず親鸞は山を下りた・・・。そのことが私たちにとって親鸞を理解する大きな手掛かりになると私は信じています。
続く
この記事で特に参考にした本はこちらです
平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
村山修一『比叡山史 闘いと祈りの聖域』
上島享『日本中世社会の形成と王権』
下坂守『京を支配する山法師たち』
平林盛得『良源』
大隅和雄『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』
小原仁『源信』
多賀宗隼『慈円』
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