田中久夫『明恵』概要と感想~華厳宗中興の祖のおすすめ伝記!高山寺で有名な名僧の熱烈な求道の人生とは

田中久夫『明恵』概要と感想~華厳宗中興の祖のおすすめ伝記!高山寺で有名な名僧の熱烈な求道の人生とは
今回ご紹介するのは1988年に吉川弘文館より発行された田中久夫著『明恵』です。
早速この本について見ていきましょう。
「明恵上人樹上坐像」(京都・高山寺蔵)で名高い明恵であるが、鎌倉時代に次々と起った新仏教の華やかさの裏に、このようなすぐれた旧仏教の代表者がいたということは案外知られていない。本書は、華厳宗中興の祖であり、高潔な仏道実践家であるその生涯を、従来の説話類を排し、正確な史実に基づいてまとめた力作である。
紀伊國屋書店商品紹介ページより

明恵(1173-1232)は平安末期から鎌倉時代初期の華厳宗を代表する僧侶として有名です。
特に浄土宗や浄土真宗の立場からすると、法然上人の『選択本願念仏集』への批判書である『摧邪輪』の著者として知られています。そのため、明恵は法然教団への弾圧をけしかけた悪人のように語られてしまうのですが、本書を読めばその見方は確実に変わります。これは浄土真宗の僧侶にとって必読の伝記と言えるのではないかと私は考えています。
著者ははしがきで次のように述べています。
明恵の生れたのは、紀州の平家家人の家である。母の家は、同じ地方で、源平合戦の後も源氏の家人として勢力をたもち、更にその家を発展させ得たのである。明恵の生涯は、この母方の源氏家人の一族と深い関係にあったというべきである。
明恵は幼少の時に、密教の教団に入り、その後、南都の華厳の伝統をうけたのである。母方の叔父が居た関係から、神護寺に入ったもので、そこに自身の主体的な意志があったとは考えられない。かような事情で、現在の概説書などでは、鎌倉時代の文化のうち、いわゆる旧仏教の復活という部分において、その活動が語られることになったのである。このように南都系仏教の代表者のひとりとして知られているが、もし同年の親鸞と同じく、明恵が比叡山にのぼっていたら、どうなったであろうか。その活動は、いわゆる新仏教の一部として語られたかもしれない。
明恵は、いわゆる遁世の聖の立場をとり、僧官・僧位をうけなかったけれども、その晩年には、朝廷・貴族の帰依をうけることが多かったといえるであろう。それは、かの新仏教の代表者の法然房源空が、授戒の聖として九条家におもむいたことと相似たところもあろう。しかし、法然のように、教団の首領として多くの人々をあつめることはなかった。菩薩の気持をもって衆生を思うことはつよく、俗人の信者に熱心に教えを説いたが、ひとつの教えをもって教団をつくろうなどという考えはなかった。いくらかのまじめな同行とともに、仏法を行ずることによって、仏菩薩の恩にこたえ、衆生を救うことになると信じたのであろう。
明恵の時代についての感覚は、釈迦の在世におくれたという劣報の意識が中心であろうから、その点では浄土門系統の末法観に近いとも見られるが、だからといって、末法の時代では、もう念仏でなければだめであるなどとはいわず、反対に少しでも聖教のこころを身につけたいとはげむ、積極的な態度をとった。この点では、宋朝風の禅をとり入れて仏教を再興しようとした人々にも通じるものがある。
明恵の態度は実践的であり、最も信をおもんじたのである。同じ信といっても、浄土門の場合とは違うという議論もなりたち得るであろうが、教えを何とかして身につけようと努力して行く態度としては、一応共通のものを見出し得ると思う。この点では、いわゆる新仏教と通じるもので、この見地からすれば、新仏教とか旧仏教とかいう区別は、必ずしも適当でない。鎌倉時代の前半の宗教の世界では、その信を根本とする点が最も大きい流れであろうが、その主潮を最も純粋に代表するひとりといえると信ずる。その生涯は、仏道を行ずることをつらぬいた一すじの道であったのである。
吉川弘文館、田中久夫『明恵』P2ー4
私は本書冒頭のこの箇所を読んでハッとしました。
そうです。親鸞と明恵は同い年なのです!しかも仏門に入ったのも同じ9歳の頃・・・。ここで述べられるようにもし明恵が比叡山に入っていたらどうなっていたことか・・・。これは非常に刺激的な「もし」です。
そして本書を通じて明恵の生涯を見ていくと、その熱烈な求道ぶりには頭が上がりません。これほど真摯に仏道に励んだ僧侶はそうそういないことでしょう。だからこそ法然教団との衝突が不可避になってしまったとも言えるかもしれません。明恵には譲れないものがあった。法然教団にも譲れないものがあった。それは仏道における信念そのものです。
法然教団の弾圧は政治的な側面や偶発的な側面もあった事件でした。弾圧そのものには明恵は関与していませんが、法然の『選択本願念仏集』には明恵と決定的に相容れないものがあったのも事実。この両者はそもそもの仏道観の前提が異なります。とはいえ、あれほどまでに明恵が『選択本願念仏集』を批判しなければならなかったのは、あの混沌の時代だったからこそといえるかもしれません。その特異な時代問題を私達まで引き継ぐ必要はありません。私達は一歩引いた目で二人の思想を見ることが許されています。
そう考えると、明恵の熱烈な求道の中にも法然や親鸞とも共通するものが見えてきます。特に自己の凡夫性(根源的罪悪性)の嘆いた親鸞と重なるものが多々見えてきます。次の記事で南都興福寺の解脱房貞慶の本を紹介しますが、まさにこの貞慶が述べていることも親鸞そっくりだったのです。
これには私も心底驚きました。そして同時に「やはりそうだったか」という思いもあったのも正直なところです。私はこれまで浄土真宗の立場からの仏教史を大学院などで習ってきたのですが、正直、明恵や貞慶を批判することに疑問を持っていたのです。彼らは本当にそんな悪人なのかと私はもやもやしたものを抱えていたのです。ですが本書『明恵』や貞慶の解説書を読みそのもやもやは晴れました。やはり私の疑問は正しかったのです。
あの特殊な時代においては、互いの信念を貫くためにはぶつからざるをえなかったのです。それぞれが真摯に自身の仏道に向かい合っていたからこそ妥協は許されないのです。なあなあで済ますことなど不可能なのです。そうした己の信念全てを賭けた信仰の戦いがあの時代には行われていたのだと私は思います。
この記事の最初にもお話ししましたが、この伝記は特に真宗僧侶におすすめしたいです。私達の「当たり前」を覆す素晴らしい伝記です。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
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