小原仁『源信』概要と感想~『往生要集』で有名な天台僧のおすすめ伝記!比叡山の高度な学問事情も知れる刺激的な一冊!

小原仁『源信 往生極楽の教行は濁世末代の目足』概要と感想~『往生要集』で有名な天台僧のおすすめ伝記!比叡山の高度な学問事情も知れる刺激的な一冊!
今回ご紹介するのは2006年にミネルヴァ書房より発行された小原仁著『源信 往生極楽の教行は濁世末代の目足』です。
早速この本について見ていきましょう。
『往生要集』により極楽往生の方法を示した源信。比叡山横川で修行しつつ、遠く海外への発信も試みた足跡。
Amazon商品紹介ページより

源信といえばその著作『往生要集』が有名です。源信は当時の比叡山を代表する学者で、膨大な経典や文献を読破し、その研究成果をこの書物にまとめました。源信はそれらの文献を通して「地獄とは何か、救いとは何か」を追い求めたのです。
985年に完成したこの書物は日本仏教にとてつもない影響を与えました。きっと皆さんも日本史の授業で一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
この本ではまず地獄の様子が克明に描かれ、その後で極楽浄土の様子や、書名にありますように「浄土へ往生するための要」が書かれていきます。
つまり恐ろしい地獄へと堕ちることなく極楽浄土へ至る道筋をわかりやすく説いたものがこの『往生要集』という書物になります。

本書『源信 往生極楽の教行は濁世末代の目足』はそんな源信の生涯を時代背景と共に追っていけるおすすめ伝記です。
この本について著者ははしがきで次のように述べています。
源信は今からほぼ千年前の人である。天慶五年(九四二)に生まれ、寛仁元年(一〇一七)六月十日に七十六歳で亡くなった。文字通り千載の後まで名を残した人である。かれの名を高からしめ、後世にその名を伝えるに功あったのは、『往生要集』をおいてほかにない。同時代にかれほどの学問僧がいなかったわけではないが、現在もなお多くの日本人は本書の名を著者名ともども知っていても、他を知らない。その差は『往生要集』の有無にある。
『往生要集』は念仏による極楽往生を説いた書であり、それを範として往生を遂げようとする人たちの指南の書となった。読解能力に恵まれた僧侶たちはそれを読み、極楽を想い、集団で念仏を励ましあった。やがて山を下りた『往生要集』は、資力に富む貴族たちに極楽と見まごう華麗な堂塔を営ませ、阿弥陀如来の像が平安京の内外を席捲した。「極楽いぶかしくは、宇治の御寺を礼へ」と謳われた宇治平等院阿弥陀堂(鳳鳳堂)が建立されたのは、源信没後わずかに三十数年にすぎない。資力とは無縁の中世の隠者もその方丈の庵に『往生要集』だけは持ち込み、西方に開いた空間からはるか極楽を思いやるよすがとしている。地獄や浄土のさまが絵解きされ、仮名書き・絵入りの『往生要集』が書かれ、来迎の所作が演出された。二十世紀の現在もなお教科書に載せられ、宇治の御寺は小額貨幣のデザインに選ばれるほどの人気である。かくして源信は『往生要集』とともにあるのが常識となって今に至っている。源信が『往生要集』とともに語られることは不当ではない。それほどに『往生要集』の価値は高いということであり、本書においてもそれに関する叙述は大きな部分を占めている。だがその反面、それ以外の側面が見えにくくなったことも事実である。
そこで学僧源信にもう少し違った角度からも光を当ててみたいと思った。先学によれば、源信の学問の大系は性相学関係、天台学関係、弥陀思想関係、口伝法門関係の四分野に及び、それを踏まえての宋仏教界との積極的な交流が指摘されている。だがその点についてあまり一般に喧伝されることはないから、源信の『往生要集』以外の学問の内容や国際性の側面について、さらに源信や比叡山学僧の学問を生み出す環境、つまり膨大な典籍を納める経蔵や、霜月会・六月会などを目指し学僧が切磋琢磨する学問環境について、先学の驥尾に付して述べてみるのも無駄ではないと思った。それにしても先行研究の表層をなぞるばかりで、源信の学問内容や延暦寺の学的環境の門扉を前に呆然と佇むだけに終わりそうだが、学僧源信の像が少しでも多面的になれば、と願うばかりである。
次に源信の足跡を追い求めているうちに、かれの母や姉妹の存在が気になりだした。青雲の志を抱いて郷関を出た少年が、学成らざるうちは帰郷すまいと決意した心底に、学的情熱とともに母の存在が大きく占めている、というのは古来よくあることだ。だから源信もまたその想いを力として学問と修行に励み、いずれの日か高僧と呼ばれる人となって母を救済しようとしたはずだ、というのは単なる空想でも誤った想像でもない。その母については、源信諸伝がこぞって特記するところであるからである。母は地元の観音の霊験により懐胎し源信を出産する。息子が長ずるに及んではその学問と修行を強く励まし、高い到達点に至らせようとする。息子もそれに応えようと孜孜として学問に励む。神仏の申し子などとは虚誕妄説の極致であり、息子への叱咤激励の話も狭い意味での史実かどうかは決しがたいテーマだが、本叢書の「評伝」という文句に引かれて、あえて危険領域に踏み込むことにした。
本書で特に印象に残っているのはこの引用にも出てきましたように、10世紀、源信が生きた時代の比叡山の学問事情が詳しく語られる点にあります。実はこれこそ私が知りたくて知りたくて仕方がなかったことでありました。
と言いますのも、「平林盛得『良源』概要と感想~荒廃した比叡山を復興し、横川の念仏信仰や学問道場を再興した傑僧のおすすめ伝記」の記事でもお話ししましたように、従来の仏教史や浄土真宗系の解説書で比叡山の堕落が強調されていることに私は疑問を持っていたのです。たしかに政治抗争や僧兵の問題はあったかもしれませんが、真摯に仏道を歩んでいた仏教者が必ずいたはずです。そして日本最高の学問大学として比叡山は繁栄していたということもよく語られます。こうしたことを考えれば、単に「堕落していた」と大きくまとめてしまうのではなく、個々の僧侶がどんな環境で自身の仏道を歩んでいたのかという視点ももっと大事にされてもいいのではないかと私は考えていたのです。その大きなポイントとして比叡山の学問システムを詳しく学べる本はないかと私は探していたのです。
そんな私にとってこの本は実に実にありがたい一冊でした。本書はまさにこうした学問の総本山としての比叡山で学びを深めた源信の生き様を詳しく見ていけます。そしてやはりこの比叡山で学僧として出世することがどれほどとてつもないことなのかということもよくわかりました。堕落どころではありません。信じられないほどの勉強量、知識量、そして修行や儀式の力があることを目の当たりにしました。やはり比叡山はすごい!私は改めて日本仏教の母体となったこの山の偉大さを知ることとなりました。
また、上の引用の後半にありましたように源信とその母の関係性も非常に興味深いものがありました。母親の強い思いで源信は出家し、その思いに応えてひたすら仏道に励んだ源信の生き様には思わずぐっと来てしまうものがありました。源信の仏道に母の面影があるというのは私にとって大きな発見となりました。ものすごいエピソードです。ぜひ皆さんもその逸話を読んで頂きたいなと思います。

最近私も比叡山を訪れたのですが、その時に横川の恵心堂も訪れました。ここで源信は師の良源から教えを授かり、後に『往生要集』を執筆したとされています。現在の建物は後世の移築のため当時のものではありませんが、このお堂の前で源信を偲んだ時間は忘れられません。美しい木々に囲まれた静謐な空間にこのお堂はひっそりと佇んでいます。政治抗争を離れて自身の仏道に打ち込んだ源信らしい空気を感じられたお堂でした。
本書『源信 往生極楽の教行は濁世末代の目足』は「『往生要集』の源信」にとどまらない様々な発見がある名著です。当時の時代背景も知れるおすすめ作品です。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「小原仁『源信』概要と感想~『往生要集』で有名な天台僧のおすすめ伝記!比叡山の高度な学問事情も知れる刺激的な一冊!」でした。
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源信 往生極楽の教行は濁世末代の目足 (ミネルヴァ日本評伝選)
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