山田昭全『文覚』あらすじと感想~源頼朝に挙兵を促した怪僧の真の姿とは。神護寺復興に命をかけた行者の生涯

山田昭全『文覚』あらすじと感想~源頼朝に挙兵を促した怪僧の真の姿とは。神護寺復興に命をかけた行者の生涯
今回ご紹介するのは2010年に吉川弘文館より発行された山田昭全著『文覚』です。
早速この本について見ていきましょう。
鎌倉前期の真言僧。流配地伊豆で源頼朝と親密な関係を築き、後白河院との連携を工作して平家打倒に奔走。動乱の仕掛人として荘園の寄進を受け、神護寺や東寺等の復興に努めた。過激な言動で三度の流刑となるが、その根源には鎮護国家の理想をめざす宗教的使命感があった。鎌倉期の仏教文化と政治に大きな足跡を残した荒法師の波乱の生涯を描く。
吉川弘文館商品紹介ページより

今作の主人公文覚は日本史の教科書に出てくるような有名人ではありませんが、源平合戦において重大な役割を果たした真言宗の僧侶です。
文覚といえば、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を観た方には強烈な印象を残したものと思われます。
このドラマでは頼朝に付きまとういかにも怪しい人物として文覚が登場するのですが、こうした怪しいイメージは『平家物語』にそのルーツがあります。『平家物語』で文覚は尋常ならざる苦行をする荒行者として登場し、その破天荒なエピソードが語られてます。こうした怪僧ぶりが現代でも定番の文覚像になっているのですが、実は文覚その人はただの破天荒人間というわけではありません。本書『文覚』では私達のイメージとは異なる文覚の実際の姿について見ていくことになります。
本書冒頭で著者はこの文覚について次のように述べています。
文覚が歴史の舞台に登場するのは承安三年(一一七三)四月二十九日のことである。彼が後白河院に提出した「文覚四十五箇条起請文」などによると、この日文覚は後白河院の法住寺御所に推参して、弘法大師の聖跡神護寺が廃寺同然の状態で放置されているのは忍び難いとして、これを復興するために荘園を寄進してもらいたいと訴えた。院は突然の寄進強要を疎んじて、これを排除しようとすると、激しく抵抗したので、やむなく逮捕して伊豆に流した。
伊豆に流された文覚は、そこで流人源頼朝と邂逅する。文覚はさっそく頼朝に近づいて平家打倒に立ち上がるようもちかけた。専横を恣にする平家への反発が澎湃として巻き起こりつつあった世情を彼は敏感に読みとっていたのである。そして治承二年(一一七八)に流罪から解放されると、ただちに院と頼朝とが平家打倒の気脈を通じ合わせるよう果敢な工作に乗り出していった。
周知のように、このときの文覚の奔走が功を奏して、平家は間もなく亡び、後白河院は権力を回復し、頼朝も鎌倉に幕府を創設することとなる。こうして院と頼朝の双方に恩を売った文覚は、ここで一挙に二人の権力者を神護寺復興の外護者に取り込むことに成功する。そして二人を介して広大な荘園を寄進させ、そこから上る莫大な資金を投入して、神護寺のみならず東寺、西寺、高野山等、空海ゆかりの真言の大寺院を次々と復興し、修繕していったのである。今日神護寺、高山寺には数々の重要な文化財が伝えられている。それら文化財の伝存はこのときの文覚の活躍に負うところが少なくない。文覚が日本の文化史上に残した功績はまことに大きなものがあった。
ところで、源平合戦という世紀の大動乱を語り伝える『平家物語』に文覚が華々しく登場してくることはここに言うまでもない。彼は実際にこの動乱の仕掛人の一人だったから、物語中に登場するのは至極当然だったわけだが、これによってまったく無名だった一介の真言僧が一躍時代の英雄ともてはやされることとなった。
しかしながら、『平家物語』に描かれた文覚は実在の文覚とはかなりかけ離れた人物像になっている。そもそも文覚は恋敵を殺そうとして誤って恋人を殺害したことを悔いて出家した。修行に出た彼は夏季の修行中藪の中で蚊や虻に刺されても平気で昼寝をしたり、厳寒期に熊野の滝に打たれる荒行の最中、失神して滝壷に落ちたが不動明王の使者に救われたりする。さらに謫地に趣く船中で竜神を叱咤して暴風雨を静めたり、義朝のにせ髑髏を見せて頼朝に挙兵をうながしたりする。『平家物語』はそのような文学的粉飾や虚構によって文覚を強引に中世的神話の世界に引き入れてしまった。
こころみに『平家物語』以外の史料に拠って文覚の行動を追って行くと、彼は物語に言うようなおどろおどろしい振舞いを見せてはいない。後白河院に寄付をねだったり、取得した荘園の既存権益と衝突したようなときには相手に罵詈雑言をあびせ、激しくあらがうところがあったことはたしかだが、しかしそうした行動の背後には何としても空海の遺跡を復興して、その鎮護国家の理想を実現しようとする、宗教的使命感のようなものが強く働いていたように思われる。
また文覚は三十四歳も年下の明恵を殊の外敬愛した。文覚の周辺には荘園の運営などをめぐる紛争が絶えなかったため、明恵はその喧騒を避けるべくしばしば故郷湯浅に隠遁した。文覚はその明恵を神護寺につなぎとめておきたくて、栂尾に学問所を建て、そこにとどまるよう懇願した。周知のようにこの学問所は後に高山寺となり、華厳宗再興の道場としていわゆる鎌倉仏教の一翼を担う拠点となるのである。
このように歴史史料にみる文覚像からは熱烈な大師信仰に由来する真撃な真言の行人、純真な修行僧を畏敬する敬虔な宗教人、といったイメージが浮かび上がってくる。『平家物語』から帰納される人物像とはかなり距離があるように思われる。
私は本書において、つとめて『平家物語』以外の史料に拠りつつ、文覚の実像を追究してみたい。そして文覚を文学作品に登場する人物としてではなく、鎌倉時代という歴史的現実の中に据えて、あらためてその実像を見なおしてみたいと思う。
吉川弘文館、山田昭全『文覚』P5-8
いかがでしょうか。そもそも私達が普段アクセスできる文覚像は『平家物語』がそのベースとなっています。しかし、実際の彼は文学作品とはかなり異なる存在だったのです。出家の動機が恋人を殺害してしまったということからして虚構であり、その他の神秘体験も文学における創造です。本書ではそうした文学ではない歴史資料から文覚の姿を知ることができます。
そして上の引用の後半にありましたように、文覚は空海を深く敬い、そのゆかりの寺院である神護寺復興に命をかけていたということが伝わってきます。この時代に寺を維持するというのはそれだけで並々ならぬ苦労があったのです。中世寺院は堕落していたと言われがちですが、その認識は一面的に過ぎることを改めて感じさせられました。
また、私達浄土真宗の僧侶にとって縁の深い明恵上人と文覚の関係も非常に興味深かったです。親鸞聖人と同時代の僧侶がどのような思いを持って活動していたかを知ることは大切なことだと思います。浄土真宗の側からだけ見て、明恵上人を法然教団の弾圧をけしかけた人間だと一方的に批判するのはもったいないことだと思います。時代は変わりました。もう鎌倉時代当時のようにいがみ合うような時代ではありません。時が経ったからこそ距離を置いて見れるものがあります。明恵上人も命をかけて仏道を歩まれたお方です。ですがだからこそあの当時ぶつからざるをえなかったという悲しい宿命でもあったわけです。この辺りの歴史的事実を私ももっと学んでいきたいと考えています。
以上、「山田昭全『文覚』あらすじと感想~源頼朝に挙兵を促した怪僧の真の姿とは。神護寺復興に命をかけた行者の生涯」でした。
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