浅野裕一『墨子』あらすじと感想~兼愛や非攻など、戦国時代において平和と博愛を説いた墨家の思想を知るのにおすすめ
浅野裕一『墨子』概要と感想~兼愛や非攻など、戦国時代において平和と博愛を説いた墨家の思想を知るのにおすすめ
今回ご紹介するのは1998年に講談社より発行された浅野裕一著『墨子』です。
早速この本について見ていきましょう。
春秋時代末期に墨子が創始し、戦国末まで儒家と思想界を二分する巨大勢力を誇った墨家の学団。自己と他者を等しく愛せと説く「兼愛」の教えや、侵略戦争を否定する「非攻」の思想を唱え独自の武装集団も保有したが、秦漢帝国成立期の激動の中で突如、その姿を消す。以後2千年を経て、近代中国の幕開けとともに脚光を浴びることになった墨家の思想の全容と消長の軌跡を、斯界の第一人者が懇切に説く。
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今作では中国諸子百家の中でも一際異彩を放つ墨家の思想を学ぶことができます。
孔子、孟子の儒家、老子、荘子の道家、韓非子の法家などと比べてあまり日本では知られていない墨家ではありますが、上の本紹介にありますように、かつては儒家と並ぶ勢力を持った思想集団でした。
私も中国思想を学ぶまで墨家のことはほとんど知りませんでしたが、以前読んだ渡邉義浩著『孫子―「兵法の真髄」を読む』で、孟子、孫子、墨子について次のように説かれた解説のおかげで墨子に強い興味を持つようになりました。
『孫子』の軍事思想の第一の原則は、戦いに勝利することを論ずる兵法書でありながら、なるべく実際の戦闘をしないよう説くことにある。それを象徴する言葉が①「百戦して百勝するは、善の善なる者に非ざるなり」である。百戦百勝したとしても、戦争による財政破綻は免れない。また、火攻篇の最後に述べていたように、戦争による死者は再び生き返ることはなく、亡国は再び存在できない。そのために『孫子』は、冒頭の始計篇から、戦争が国家の大事であり、民の生死が決まり、国家存亡の岐路である、と説いているのである。
戦争を否定する『墨家』が積極的に戦いに参加するのに対して、兵家の『孫子』が戦わずに勝つことを最善とすることは興味深い。『墨家』が非攻を説きながら戦うことを矛盾として捨ておかないのと同様に、『孫子』がなぜ、戦わないことを最善の戦いとするのかについて考えていくと、『孫子』の兵法の真髄に近づく。
ここには、なぜ戦うのか、という根源的な問いかけがある。『孟子』は侵寇する側の正義を追究して「義戦」論を説いた。だが、正義は相対的である。このため『墨子』は、侵寇そのものを絶対的な悪と考え、侵寇された者を守ることで「非攻」を貫こうとした。これらに対して『孫子』は、戦いを善悪により判断しない。戦いは、すでに現実として存在する。そこで戦いの目的を突き詰めていく。そのことにより『孫子』は、戦いの目的を相手国の蹂躙や人間の殺害に求めない。相手を自分に従わせることを戦いの目的と考え、相手をなるべく傷つけずに自分に従わせようとする。それが②「戦はずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」という表現となっているのである。
中央公論新社、渡邉義浩『孫子―「兵法の真髄」を読む』P86-87
「非攻」という平和主義や「兼愛」という博愛主義を説いていた墨家が進んで武装し戦闘していたというのはかなり驚きでした。ですがこれは簡単な話ではなく、戦国時代という過酷な時代背景をいかに生き抜くかを極限まで考えた上でのお話です。
非攻を唱えながら進んで武装したことを矛盾と一言で切り捨てることはできません。なぜそのようなことになったのかというのは私にとって非常に興味深いものがありました。
本書ではそんな墨家がどのように生まれ、どのようにして中国に広がり、さらにはいかにして消滅していったかが説かれます。
戦乱の世において平和主義を説いた異色の思想家集団の実態を知ることができる貴重な参考書です。これは刺激的な一冊でした。
ぜひおすすめしたい作品です。
以上、「浅野裕一『墨子』~兼愛や非攻など、戦国時代において平和と博愛を説いた墨家の思想を知るのにおすすめ」でした。
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