末木文美士『親鸞』概要と感想~日本を代表する仏教思想学者による親鸞伝

末木文美士『親鸞 主上臣下、法に背く』概要と感想~日本を代表する仏教思想学者による親鸞伝
今回ご紹介するのは2016年にミネルヴァ書房より発行された末木文美士著『親鸞 主上臣下、法に背く』です。
早速この本について見ていきましょう。
法然の専修念仏に帰依し、弾圧に抵抗して、独自の信仰と思想を展開させた、日本で最も親しまれている仏教者。本書では通説を批判しながら、『教行信証』などに見える思想とその人物像を新しい目で解明する。
[ここがポイント]
Amazon商品紹介ページより
◎ 事績がほとんど分からない親鸞だが、『教行信証』などの史料は比較的多く、そこに見られる思想から人物像を明らかにする。
◎ 浄土真宗の開祖を、日本宗教史の第一人者が明らかにする。
本書の著者末木文美士氏は日本を代表する仏教思想研究家です。その末木氏は本書の執筆における姿勢について次のように述べています。これがそのまま本書の特徴として非常に重要なポイントとなってきますので少し長くなりますがじっくり読んでいきます。
本書は「ミネルヴァ日本評伝選」の一冊であるが、読者がもしふつうの意味での親鸞の伝記を期待して読まれるならば、当てが外れるかもしれない。なぜならば、本書には、何年に親鸞が何をした、というような伝記的な記述はほとんど述べられていないからである。確かに中世の人であっても、年ごとの事績がかなりはっきりと遺されている人もいる。しかし、親鸞はかつて非実在論さえあり得たほど、事績が知られていない。それならば、どうすればよいのか。
これまでの実証的と言われる親鸞の伝記研究は、わずかに遺された痕跡から不明の部分を復元しようという作業であり、それは大きな成果を上げて、いく種類もの伝記が書かれてきた。それはそれで有意義なことであり、もちろんそれを継承していくことも重要である。だが、遺された史料がわずかしかなければ、それによって知られることは限られている。不明な個所に関しては、様々な解釈が出され、いずれとも決定できない。
それならば、別の方法もあるのではないか。近年になって注目されている一つの方法は、後代の伝記に出ている物語を復活させるというやり方である。近代の実証主義は、近世に広く行われていた神秘的な伝記的記述をすべて否定して、同時代の史料のみで、しかも近代的合理主義にかなうエピソードだけを拾い出して伝記を組み立て直そうとしたところに成り立つ。しかし、それではあたかも近代人であるかのような親鸞像が出来上がって、無味乾燥になってしまう。豊かに展開された神秘性を含む物語を、もう一度見直してもよいのではないか。確かにそれも親鸞の別の見方であろう。
だが、本書はその方法も採らない。同時代史料に戻ろうという点では、これまでの実証主義を継承する。だが、わずかな痕跡から事実を復元しようという努力を放棄する。分からないところは分からないままで仕方ないではないか。解釈が分かれるところは、両論併記にしておこう。歴史的事実の確定を求めるのではなく、今遺された史料から、何が分かるか、その範囲で満足するのでよいのではないか。
ミネルヴァ書房、末木文美士『親鸞 主上臣下、法に背く』Pⅰーⅲ
いかがでしょうか。
特に私は一番最後の「分からないところは分からないままで仕方ないではないか。解釈が分かれるところは、両論併記にしておこう。歴史的事実の確定を求めるのではなく、今遺された史料から、何が分かるか、その範囲で満足するのでよいのではないか」という言葉に賛同します。
これまで当ブログでもインド仏教の記事を数多く更新してきましたが、そこでも近代の実証主義から復元されたブッダの問題点は見てきた通りです。そしてそれは浄土真宗の親鸞も事情は同じでした。
本書ではまずこうした近代実証主義的な親鸞像がどのようにして生み出されていったのかを見ていきます。そしてその上で伝承や神秘的な親鸞像の存在も見ていき、そこからさらに末木氏の言う両論併記的な手法で親鸞聖人の生涯や思想を追っていくことになります。
最近では当ブログでも紹介してきましたように平雅行氏や今井雅晴氏の親鸞研究が注目されています。歴史学者の見地から解き明かされる親鸞聖人の生涯には私も大いに刺激を受けています。ただ、両氏の提示する親鸞像にはかなりの相違があります。まさに上の引用で末木氏が述べるように、親鸞にはわからない点が多いのでそこはそれぞれが解釈するしかないのです。そのためその解釈にずれが生じてしまうのです。このことについて末木氏はさらにこう述べています。
研究者の間でも意見が割れるような問題に関しては、無理に事実は一つとしてどちかに決めなくてもよいのではないだろうか。あるいは、それは歴史学者にとっては大きな問題かもしれないが、歴史学が専門でない著者にとっては、いずれの説を採ればよいか、下手な判断は下し難い。むしろそれ以前に、基本となる伝記史料の意図や性格を明らかにすることの方が重要なように思われる。
ミネルヴァ書房、末木文美士『親鸞 主上臣下、法に背く』P42
これはまさに私自身が平氏と今井氏の論争を読んでいて思ったことでした。歴史学者ではない私にはどちらが正しいかもはや判断が不可能な状況になっています。しかも平氏に関しては今井氏だけでなく、本書の著者末木氏とも、最近では『摂関院政期思想史研究』を出版した森新之助氏とも激しい論争が続いています。残念ながらこれらの論争は単なる学術論争を超えた人格批判の言説まで飛び交っています。外部の私にはこうした学術上の対立が残念でなりません。研究者ではない私には現場のことはわかりませんが、親鸞や法然教団をめぐるこうした論争が起こるくらいであれば、末木氏の述べるように、私自身はわからないままでもよいと思ってしまいます。「平雅行『日本中世の社会と仏教』概要と感想~平安中期から鎌倉初期にかけての僧尼令の実態を知るのにおすすめ!僧侶国家公務員論についての疑問についても」の記事でもお話ししましたが、ここからは信仰の問題です。自分自身がどう親鸞聖人を受け止めるのか、それが問われてくるのだと私は思います。
ただ、私はこうした学術上の対立が学問の発展の上では必要なものだということは重々承知です。建設的な批判や旧説を乗り越える新説がなければ発展は望むべくはありません。私は平氏の学説も今井氏の学説もとても参考にさせて頂いています。末木氏も森氏もそうです。私はこうした学者さん達の仕事によってこうして学ぶことができています。そのことに非常に強い感謝の念を持っています。
しかし私はその感謝の念を持ちつつも、「わからないことが多すぎる親鸞聖人にどう向き合うか」は自分自身で考えていかなければならないと強く感じています。
末木氏の伝記では親鸞像を巡る様々な立場がどう出来上がって来たかも含めて、広い視点から見ていくことができます。著者が述べるように「純粋な親鸞伝記」を期待する方は面食らうかもしれませんが、親鸞伝を様々な面から見ていきたいという方にはぜひおすすめな参考書となっています。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「末木文美士『親鸞』概要と感想~宗学、歴史学、バランスの取れた中立的なおすすめ親鸞伝記」でした。
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