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⑸『方丈記』から見る親鸞出家時の京都の地獄とは~死体が鴨川を埋め尽くす大飢饉・・・

飢饉
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【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】⑸  『方丈記』から見る親鸞出家時の京都の地獄とは~死体が鴨川を埋め尽くす大飢饉・・・

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人とすみかと、またかくのごとし。

學燈社、三木紀人『現代語訳 方丈記 発心集 歎異抄』P22
鴨長明(菊池容斎画、明治時代) Wikipediaより

鴨長明(1155-1216)によって書かれた『方丈記』のこの言葉は、日本を代表する名文として名高いものがあります。これは『方丈記』のまさに冒頭に置かれた言葉なのですが、「この世は移ろいゆく」という諸行無常をうたったものとして有名ですよね。

ただ、この鴨長明自身は僧侶ではなく、京都下賀茂神社の禰宜(神官のこと)の子として生まれた人物でありました。神社の神官が諸行無常をうたった言葉を導入で書くほど当時は寺院と神社が混然一体化していことが見えてきます。

また、この『方丈記』という作品は鴨長明が実際に目にした1180年頃の京都の大災害を中心に編まれたものになります。鴨長明はまさに新聞記者のように当時の地獄のような有様を書き記したのです。

そしてこの『方丈記』に書かれた京都こそ幼き親鸞聖人が生きた京都であり、まさに出家した時期に当たるのです。

1181年、親鸞聖人(以下敬称略)は養父の日野範綱に連れられ出家しました。親鸞9歳の年です。

9歳といえば当時としてもかなり早い出家だったようです。

ではなぜ親鸞はそんなに早く出家しなければならなかったのか。

それがこの1181年という特異な年の影響があったのではないかと思われます。

これからその『方丈記』を頼りに、当時の地獄のような京都の有様を見ていくことにしましょう。

まず1177年。一つ目の災厄が京を襲います。安元の大火と呼ばれる火事が発生し京の街の3分の1を焼く大惨事となります。せっかくですので原文をそのまま読んでみましょう。

んじ安元三年四月二十八日かとよ、風はげしく吹きて、静かならざりし夜、いぬのときばかり、都の東南たつみより火出で来て、西北いぬいに至る。はてには、朱雀門、大極殿、大学寮、民部省まで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。

火元は、樋口富ひぐちとみ小路こうじとかや、舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく、末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪えず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。その中の人、うつし心あらむや。或は煙にむせびて倒れ伏し、或は焔にまくれてたちまち死ぬ。或は身ひとつ、かろうじて逃るるも、資財を取り出づるに及ばず、七珍万宝さながら灰燼となりにき。そのつひえ、いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。まして、その外、数へ知るに及ばず。すべて、都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ねるもの数十人、馬・牛のたぐひ、辺際を知らず。

學燈社、三木紀人『現代語訳 方丈記 発心集 歎異抄』P24-25

いかがでしょうか。意外と読みやすいことに驚かれた方も多いのではないでしょうか。

鴨長明の文章はまさに新聞記者のように簡潔で臨場感ある筆致で綴られています。ややこしい修辞や難しい言葉も使わず、ただ淡々と目の前の惨事を記録していきます。

そしてこの安元の大火の3年後、1180年に治承じしょうの辻風という災厄が続いて襲ってきます。

3年前の大火で壊滅状況だった京に今度は竜巻が吹き荒れたのです。貴族の邸宅ですら破壊される猛烈な風です。庶民の粗末な小屋など言うまでもありません。鴨長明は空に吹き上げられた破片の様子まで細かに描写し、未曽有の災厄に恐れおののく人々の姿を記したのでありました。

そしてさらに同年、今度は福原遷都という事態が発生します。これは天災ではなく人災ですが、京に住む人々からすると驚天動地の大災厄でありました。

これは源平争乱によって平家軍が劣勢になり急遽都を福原(現在の神戸)に遷都させるという措置でした。これにより天皇家の建物や官僚の仕事場も全て移動となりましたので、未曽有の大混乱です。しかも平清盛による突然の通知だったため、受け入れ先の福原側も用意のできぬまま遷都を強行せざるをえませんでした。当然建物などもできていません。それでも無理やり移動を強制されたのですから貴族達もたまったものではありません。

そして京に住む一般庶民たちはそうした天皇家や貴族たちから取り残されたわけですからもっと深刻です。なぜなら、京の治安を維持してきた貴族たちや武士たちもろとも福原に行ってしまったからです。安元の大火や治承の辻風で街は荒廃し、治安は乱れに乱れていました。群盗が多発していたのです。そんな状況でさらにそれをほったらかして福原に行ってしまうなど、住民からすると大災厄以外の何物でもありません。

しかも遷都以来、悠久の都として繁栄し続けてきた平安京がこうもあっさりと捨て去られてしまったことは人々の心に大きな衝撃を与えました。まさに何を信じてよいかわからない絶望をこの遷都で人々は味わったことでしょう。ただ、不幸中の幸いと言うべきか、この福原遷都は結局頓挫してしまい、1180年末には平安京に帰ってくることとなりました。そしてやっと一安心かと思われた矢先、最悪の災厄が襲ってきました。

それが1181年からの養和の大飢饉になります。

この箇所も本当は原文で紹介したいのですが長くなるので現代語訳したものをここに紹介します。この養和の大飢饉の箇所は『方丈記』の中でも特に有名な箇所です。ぜひ機会があれば原文で読んで頂けたらと思います。

二年間、飢饉が続いて、言語に絶することがあった。春・夏は日照り、秋には大風・洪水など、凶事ばかり続いて、五穀はまったく実らなかった。春に耕し、夏に田植をしたが、そのかいもなく、秋の刈り入れ、冬の収納などのにぎわいはなかった。

この事態によって、国々の民は、ある者は土地を棄てて他国に移り、ある者はわが家を棄てて山に住んだ。さまざまの御祈祷が始まり、並々でない秘法が修されたが、まったくその効果はなかった。都のならわしとして、万事につけて資源は地方に依存していたが、この頃は、都に送られて来るものが何もなかったので、都人も、生きるためになりふりをかまわなくなった。堪えきれなくなっては、さまざまの財宝を、かたはしから捨て値で手放したが、誰ひとり見向きもしなかった。稀に何かと交換してくれる者は、黄金を軽視し、穀物に高い値をつけた。乞食が路上に目だち、彼らが憂え悲しむ声が一帯に聞こえた。

一年目はこのように辛苦の中に暮れた。次の年は持ち直せるかと思ううちに、飢饉のうえに疫病までが加わって、ますます深刻になり、混乱をきわめた。

人々は皆、飢えきってしまったので、日を追って死に瀕していく。そのさまは、少水の魚のたとえそのままであった。はてには、笠をかぶり、脚絆きゃはんをつけた相当な身なりの者が、必死の姿で家々を回って物乞いをするのであった。このような衰弱しきった者どもは、歩いているかと思うと、突然倒れ伏した。土塀の下や路上に横たわる餓死した者の類は無数に見られた。これらを処理する手段もないので、放置された死体の腐臭があたりに充満し、その変化していく亡きがらのさまなど、見るに堪えぬことが多かった。まして、鴨河原に至っては、馬や牛車の通る道もないほどの惨状であった。

したたかな、山で働く卑しい男たちも力が尽き、薪も乏しくなっていったので、かてを得る手だてのない人は、我が家を壊し、市に出て、その材を売った。しかし、一人が持ち出して得た代価も、一日の命をつなぐことさえできなかった。奇怪にも、薪の中に赤い塗料が着き、箔なども所々に見える木が混じっているので、不審に思って調べてみると、売るべき物を持たない者が、古寺に行って仏像を盗み、堂の調度を壊して持ち出し、それを割り砕いて薪にしたのである。たまたま末世に生まれ合わせた身で、私はこんな心憂いことを見ることになったのである。

學燈社、三木紀人『現代語訳 方丈記 発心集 歎異抄』P32-35

いかがでしょうか。1181年から始まった飢饉の恐ろしさが実にリアルに描かれていますよね。

しかも鴨長明が見事なのが、この飢饉の根本的な原因を実に的確に見抜いている点です。上の引用の前半部分にあった「都のならわしとして、万事につけて資源は地方に依存していたが、この頃は、都に送られて来るものが何もなかった」という箇所ですね。

まさにこの頃は源平合戦が行われており、京への物資の輸送が止まってしまっていたのです。戦時中は自由な往来は不可能。まして京や西日本を基盤とする平家を利するようなことを坂東の源氏方がするわけもありません。そこに天候不順が重なったためこのような未曽有の飢饉となってしまったのです。鴨長明はこうした京の弱点を巧みに見抜いていました。源氏が後に平氏を倒すことができたのもこの時に坂東ではそれほど大きな飢饉となっていなかったことも大きな要因だったと言われています。この時に平氏は飢饉で苦しみ、源氏方は力を蓄えていたのです。源平合戦の結果は天候にも大きく左右されていたと言えそうです。

また、上の引用にはさらに続きがあり、これが極めて有名な箇所になります。私もこれを初めて読んだ時のことは忘れられません。それほど強烈な描写となっています。

一方、実に心打たれることもあった。愛する妻や夫を持つ者は、その情愛のより深いほうが必ず先に死んだ。そのわけは、わが身を二の次として相手をいとしく思うままに、稀に得た食物もその人に譲るからであった。したがって、親と子の関係にある者は、決まったことのようにして、親がまず先に死んだ。また、母の命が尽きたのを知らないで、いとけない赤ん坊が、なおも乳房を吸ったままの姿で横たわっているなどという情景もあった。

仁和寺にいた隆暁法印りゅうぎょうほういんという人が、このようにして無数の人が死んだことを悲しんで、死んだ者の首に出会うたびに、その額に阿字を書いて、仏縁を結ばせることをなさったという。その施しをした人数を知ろうとして、その年の四月五月にわたって数えたところ、都の中、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東、つまり左京の範囲内の路上にあった死体の数は、総計四万二千三百余りであった。まして、この二箇月の前や後に死んだ者も多く、また鴨河原・白河・西の京、さらにその周辺各地のをも加えれば、際限もない人々が死んだわけである。当然、全国的規模では想像を絶するのである。

學燈社、三木紀人『現代語訳 方丈記 発心集 歎異抄』P35-36

小さな赤ん坊が死んだ母親の乳房を吸っている・・・

これほど感情に訴えかける描写がありますでしょうか。鴨長明の鴨長明たる所以がここにあります。

そして死者の数を数えた隆暁法印のエピソード。

これほどまでに死者が出た未曽有の事態がこの養和の大飢饉だったのでした。

飢饉
『餓鬼草子』東京国立博物館HPより ※養和の飢饉を描いたものではないが、飢餓の苦しみを描いた絵巻物

親鸞が出家したのは1181年の4月とされています。ですのでこの飢饉はまだ始まっていません。しかし年来の悪天候によりすでにその兆候は目にしていたことでしょう。

しかも1177年から災厄続きの平安京です。没落貴族であった日野家もまさに上の引用でありましたようにもはやなりふり構っていられないほどの危機に見舞われていたはずです。

こうした中で親鸞は出家したのでありました。

出家さえしてしまえば、とりあえずは食べていくことができます。

ただ、幼い親鸞は同時にこうも思ったかもしれません。

「こんなにもたくさんの人が地獄の苦しみを味わって死んだのに、自分だけ救われてもよいのだろうか・・・」と。

後の親鸞は「全ての人が救われる仏道」を強く念ずるようになります。もしかすると、幼少期のこのような地獄のような体験が彼の仏道観に大きな影響を与えたのかもしれません。

いずれにせよ、親鸞が出家した時代というのはこのような厳しい時代だったのです。生きるか死ぬか。武士だけに関わらず全ての人間がそのことと真剣に向き合わねばならない過酷な時代だったのでありました。

次の記事からは親鸞が修行した比叡山延暦寺でのお話に入っていきます。若き親鸞はそこで何を学び、どのような修行を行っていたのでしょうか。

続く

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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