⑶親鸞聖人の優秀すぎる叔父たちの存在②日野宗業~あの以仁王の教師も務めた超秀才儒学者

親鸞聖人の優秀すぎる叔父たちの存在⑵日野宗業~あの以仁王の教師も務めた超秀才儒学者
前回の記事では親鸞聖人(以下敬称略)の優秀すぎる叔父の一人、日野範綱を紹介しました。

今回の記事ではもう一人の優秀すぎる叔父日野宗業をご紹介していきます。
これまでの記事でもお話ししてきましたが親鸞の父日野有範には2人の兄がいました。それが範綱と宗業です。しかし残念なことに、彼ら三兄弟の父日野経尹は「放埓の人」だったらしく朝廷で何らかの失態を犯してしまいました。そのためこの三兄弟は出世の道が閉ざされてしまったのです。
本来日野家は儒学者を輩出する学問重視の家でありましたが、こうした状況によって長男の範綱は後白河法皇の側近として働き、三男の有範は息子共々出家という形を取らざるを得なくなったのでした。
そんな中この宗業は儒学者として大成することになります。
「え?儒学者としての道は絶たれたのでは?」とお思いになられた方も多いでしょう。
たしかにそうなのです。普通ならばまず不可能なのです。
ですがこの宗業はその不可能を覆すほどの超秀才だったのでした。
どれほど彼が秀才だったかというと、摂関家のトップたる九条兼実が日記の『玉葉』で「宗業は才学・文章を相兼ね、名誉は天下に被る」「名誉の聞こえあり」「宗業は才漢をもって立身す、当時名誉の士たり」と絶賛するほどでした。
ただ、これほどの秀才でありますがやはり苦労人であることには変わりありません。父が「放埓の人」であったため、すんなりと儒学者としての地位を認めてもらうことはありませんでした。『玉葉』にも「宗業は苦学の聞こえあり」と記されるほどです。当時の朝廷のシステムでは儒学者として公的な身分になるには他の儒学者の推薦が必要でした。ここに身分制度が絡んでくるのです。
宗業はその才覚にも関わらず、身分の低い者として朝廷では扱われていました。彼の能力を絶賛していた九条兼実ですら宗業を「凡卑のものなり」と評する始末です。父の失態もありますが、そもそも日野家が上流貴族からすると卑しい存在のように映っていたという厳然たる事実があったのでした。
そのため宗業は公式な儒学者としては認められず、生活のために家庭教師などをして食いつなぐことになります。
ただ、その教え先がとんでもなかった!
なんと彼はあの以仁王の家庭教師を務めていたのです!
以仁王といえば源平争乱のきっかけとなった1180年の挙兵の中心人物です。平氏政権打倒の号令はここから始まりました。その以仁王の教師をしていたというのですから末恐ろしい・・・。
とはいえ挙兵自体はあっけなく失敗し、以仁王も敗死してしまいます。史実かどうかは確定できませんが、以仁王の遺体の顔検分もこの宗業がさせられたという説もあります。それだけ以仁王の近くにいた人物として知られていたのでしょう。
宗業はこのように有力な王族や貴族の教師として長きにわたって忍耐の時を過ごすことになりました。
そしてこの宗業が頭角を現すようになっていくのは、後の後鳥羽上皇の時代になってからでした。後鳥羽上皇の抜擢によりついに彼は儒学者として公に活動することができるようになったのです。

その中でも最大の功績のひとつが元号の制定です。元号は儒学者たちがいくつか提案し、そのいずれかが採用され元号が決まるのですが、彼の提案で決まったものが2つあります。それが建仁(1201~04)、建保(1213~19)でした。
建仁といえば栄西が創建した建仁寺の基になった元号です。しかも建仁元年は親鸞が比叡山を下りて法然教団に入門した記念すべき年でもあります。この建仁の年号の制定に宗業が関わっていたというのは驚きですよね。それほど後鳥羽上皇から信頼の厚い儒学者だったということになります。
そして1213年には後鳥羽上皇の後押しで従三位という上級貴族の仲間入りも果たしました。これも異例中の異例です。有名な歌人藤原定家は「耳目を驚かす」人事だと日記に記し、摂関家の九条道家も強く反発しています。それほど宗業の出世は「ありえない」ものだったのでした。
ただ、こうした人事もよくよく考えてみると前回の記事で紹介した範綱と似ています。二人とも圧倒的な権力を持つ上皇の信認を得てここまで出世を果たしています。藤原定家も九条道家も摂関政治という旧来の秩序側の人間です。そうした側からは身分の低い彼らが出世するのは世の秩序を乱すことのように映っても仕方ありません。
しかし新勢力たる上皇からすると、旧秩序の息がかかっていない人間の方がやはり信頼が置けるのです。しかも範綱、宗業は圧倒的に優秀な人物でした。しかも彼らを抜擢した主君に対しての忠義も篤い。これほど側近に適した人物はいなかったことでしょう。
こういうわけで親鸞の優秀すぎる2人の叔父たちは低い身分から異例の出世を遂げることになりました。
幼い親鸞はこの2人を間近で見ていたはずです。もちろん、親鸞が出家した1181年段階では2人の叔父たちはまだ出世していませんでしたがその優秀さは感じとっていたはずです。宗業は親鸞の家庭教師でもありました。親鸞は彼から儒学や読み書きの基礎を習っていたのです。
身分的にはどん詰まりであったものの、圧倒的な知恵才覚と忍耐で人生を切り開いていく2人を見て親鸞は何を思ったのでしょうか。親鸞は何も書き残していませんのでそのことはわかりません。
しかしこの2人の存在が後に親鸞の仏教人生に大きな影響を与えることになったのです。このことについては後の記事で改めてお話ししていきますが、親鸞にはこうした偉大な叔父たちがいたということはぜひ強調したいと思います。
身内にこうした人間がいるというのはやはり人生観に大きな影響を与えると私は思います。普通の親鸞伝ではあまり語られない話ではありますが、私はここに歴史の大きな転換点があったのではないかと考えています。親鸞という巨人が生まれるにはやはりその前史があるのです。
そして見逃しがちですが、幼い親鸞を出家させた父有範も実は高く評価すべき存在です。有範自身はたしかに目立った活躍はしませんでしたが、やはりその最大の功績は親鸞を出家させたことです。私たちは親鸞が出家したことを歴史的事実として自明のことのように考えてしまいますが、もしこの有範がその決断をしていなかったら浄土真宗はそもそも存在しなかったのです。私たちが知る親鸞という人物は決定論的に僧侶になったわけではなく、たまたま父の判断で出家したまでです。しかしそのたまたまの判断こそ、世界を変える「たまたま」だったのです。
こう考えると歴史の面白さを感じずにはいられません。私たちの生きる今もこうした「たまたま」の積み重ねで成り立っています。しかしその「たまたま」が運命のように思えてならない。こうなるのは必然だったとしか思えないところに大いなる力があるのです。そこに私たちはどうしようもなく惹きつけられるのでしょう。
そういう意味でこの日野有範という人物に私たちは大いに感謝すべきなのではないでしょうか。
では、次の記事では親鸞の9歳での出家についてお話ししていくことにしましょう。ここから親鸞の仏教人生が始まっていきます。
続く
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