V・ハヴェル『力なき者たちの力』あらすじと感想~チェコ大統領による必読エッセイ~知らぬ間に全体主義に加担する私たち
私たちは今何をすべきなのか。知らぬ間に全体主義に加担する私たち ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』チェコ大統領による必読エッセイ
今回ご紹介するのは2019年に人文書院より発行されたヴァーツラフ・ハヴェル著、阿部賢一訳『力なき者たちの力』です。
まず言わせてください。この本は衝撃的な1冊です。私が今年読んだ本の中でもトップクラスのインパクトを受けた作品でした。元々プラハの春に関心を持っていた私でしたが、この本を読み、あの当時のプラハで何が起こっていたのか、そしてそこからどうやってソ連圏崩壊まで戦い、自由を勝ち取ったのかという流れを改めて考え直させられる作品となりました。
この本はコロナ禍で混乱を極め、生きにくい世の中となってしまった日本においても非常に重要な視点を与えてくれます。今こそこの本が評価されるべき時です!この記事では少し長くなってしまいますがこの本がいかに価値ある本か、そしてハヴェルが言わんとしていることについてお話ししていきたいと思います。
では、この作品について紹介する前に、著者のヴァーツラフ・ハヴェルの経歴を見ていきましょう。
戯曲家であったハヴェルは反体制知識人として「プラハの春」後共産党政権に抗議活動を行ない、幾度となく逮捕・投獄された。1989年、ビロード革命を率いて民主化を成し遂げ、チェコスロヴァキア共和国大統領に就任(在任1989~92)。さらにチェコ共和国初代大統領(在任1993~2003)も務めた。
第二次世界大戦後、チェコスロヴァキアの人々は40年にわたる共産主義の圧政に苦しんでいた。もはやその不自由さは当たり前の苦しみとして生活に入り込み、ポスト全体主義体制となって人々を疲弊させていた一。1989年、プラハの学生たちが火付け役となり、ハヴェルは「市民フォーラム」を率いて彼らを支援。誰もが不可能と思い込んでいた革命を成し遂げた。
1989年11月、中世の面影を残す首都プラハのヴァーツラフ広場に5万人を超す市民が集い、ハヴェルは国の伝統的な信念を表す言葉「真実は勝つ」を用いて民衆に勝利宣言。それは流血を伴わず、滑らかなビロードのように遂行されたため「ビロード革命」と呼ばれた。市民は「ハヴェルを城へ(Havel na Hrad)」を合言葉に、プラハ城にある大統領の椅子へとハヴェルを押し上げた。
NHK出版、阿部賢一『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」より
ヴァーツラフ・ハヴェルは元々劇作家でありましたが、後にチェコの大統領となった人物です。
ハヴェルはプラハの春も経験し、一貫してソ連の介入や自由を抑圧する全体主義への抵抗を示していました。その活動の根本思想ともいうべきものがこの『力なき者たちの力』で書かれることになります。
ではこの作品について見ていきましょう。
無力な私たちは権力に対してどう声をあげるべきか?
チェコの劇作家、大統領ヴァーツラフ・ハヴェルによる全体主義をするどく突いた不朽の名著
いま世界で再び注目をあつめる政治的エッセイ
権力のあり様を分析し、「真実の生」の意義を説いたこのエッセイは、冷戦体制下の東欧で地下出版の形で広く読まれただけでなく、今なおその影響力はとどまることを知らない。形骸化した官僚制度、技術文明の危機を訴える本書は、私たち一人ひとりに「今、ここ」で何をすべきか、と問いかける。無関心に消費社会を生きる現代の私たちにも警鐘をならす一冊。
Amazon商品紹介ページより
1968年のプラハの春以降、チェコでは人々の自由は失われ、知識人、文化人は弾圧され、人々の間では無力感が広まっていました。少しでも反体制の姿勢を見せれば逮捕されるような世界。いつしか人々は体制側が与える指示に不服ながらも従順に従うようになっていきました。
そんな世界の中でハヴェルは抵抗を続けます。それも、文化の力で。
もちろん、彼は苦難をなめ続けることになります。しかし、それでも彼は屈せず1989年のビロード革命に大きな役割を果たすことになったのでした。
ハヴェルはソ連抑圧下のプラハで何が起こっているのかを冷静に分析していきます。
ただ単に体制が権力を駆使して市民を抑圧しているように見えるが、実際には市民もその体制維持に協力してしまっていることをハヴェルは見抜きます。それを彼はポスト全体主義と定義しました。
ここから少し長くなりますが阿部賢一『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」を参考にこの本を見ていきます。今を生きる私たちにとっても非常に重要な視点をハヴェルは説いています。これはぜひご紹介したい内容となっています。
では、始めていきましょう。
青果店のスローガンは何を意味するのか
「ポスト全体主義」、「イデオロギー」といった言葉を論じようとすると、ややもすれば議論が抽象的になってしまいますが、ハヴェルは日常生活の具体例を挙げて論じていきます。それが「青果店の店主」の話です。
青果店の店主は、「全世界の労働者よ、一つになれ!」というスローガンをショーウインドウの玉ねぎと人参のあいだに置いた。なぜ、かれはそうしたのだろう?そうすることで、世界に何を伝えようとしたのか?世界中の労働者が団結するという考えにほんとうに熱狂していたのだろうか?熱狂したあまり、理想を公共の場で表明したいという抑えがたい必要性を感じたのだろうか?どうすれば労働者が団結し、それが何を意味するか、ほんの一瞬でも考えたのだろうか?
ここでの「青果店の店主」は、市場で野菜や果物を自分の判断で仕入れて販売する、私たちに馴染みのある青果店の主人とは少し異なっています。当時のチェコスロヴァキアは、計画経済の原理に従っていたため、青果店といっても個人経営の店ではなく、国営企業のネットワークに属していました。そのため、店で販売する商品も、店主の裁量で希望する分量を仕入れることはできず、決まった分量、決まった商品しか入手できないということもしばしばありました。青果店を営むことには、「ある種の組織の中で」という条件が付いていたのです。
そのような環境では、野菜を仕入れるだけではなく、商品を販売するに当たって政治的なスローガンを掲げることが求められていても、不思議ではありません。「全世界の労働者よ、一つになれ!」というスローガンは、『共産党宣言』の結びの言葉であり、社会主義体制下ではよく目にする標語の一つでした。その理念を青果店でも表明することが求められたのでしょう。
ですが、ハヴェルはあえて「なぜ、かれはそうしたのだろう?」と問います。長年誰もがやっている慣習的な行為の意味を、問い直すのです。「皆がやっているから」「断れば厄介なことになるかもしれないから」。店主はそう考えて、「生活していくために必要なこと」をしたにすぎないのかもしれません。スローガンを置くという行為は、比較的安定した生活を保障してくれる何千とある「些細なこと」の一つにすぎないからです。けれども、青果店店主は、このメッセージが本当は何を意味しているかを考えてはいません。本当に労働者の団結を考えているわけでもありません。スローガンを置くことは、せいぜいその言葉に対して大きな抵抗を感じていないこと、さらに、異議申し立てはしていないという消極的意見を提示するものでしかなく、ただの「隠れ蓑」にすぎないのです。
NHK出版、阿部賢一『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」P26-28
青果店の店主が店に出すスローガン。そこからハヴェルは話を始めていきます。
これを読めば確かに自分が思ってもいないスローガンを当たり前のように掲げていることに違和感が湧いてきますよね。
引き続き読んでいきます。
「労働者」という一般的な表現ではなく、主語が「私」の文章を掲げなければならないとしたら、青果店店主はどう感じるでしょうか。
もし「私は恐怖心を抱いているので、ただただ従順なのです」というスローガンをショーウインドウに置くとしたら、青果店店主はスローガンが意味するものについて無関心ではいないだろう。
自分の弱みを人前にさらけ出すことは勇気のいることです。「私」を主語にしたスローガンを置くとしたら、おそらく店主は躊躇することでしょう。一方で、主語が「労働者」のスローガンは、躊躇なく置くことができる。それは、このスローガンが「記号」の形をとっているからだ、とハヴェルは説明します。「労働者」という大きな主語を使ったスローガンは、例えば「恐怖心を抱いている」というような、店主=「私」の本当の気持ちを覆い隠します。その「私」を覆い隠す高いところにあるものがイデオロギーです。
イデオロギーは「世界と関係を築いていると見せかける方法」であり、「ヴェール」、「口実」だとハヴェルは言います。(中略)
「社会主義」のため、「国家」のため、「国民」のため、「労働者」のためーこうした「記号」としての表現は、内実を伴っていないにもかかわらず、それらしい意味のあることのように聞こえます。しかし、実際には何を意味しているのかが明確ではないため、その表現は恣意的になっていきます。例えば、「国民の要望に応える」という表現が意味するのは、大抵の場合「ある特定の国民の要望」であるにもかかわらず、「全国民」または「大多数の国民」と一般化されて用いられるということは、どの時代の、どの政治体制下でも起きることでしよう。
NHK出版、阿部賢一『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」P29-31
主語をちょっと変えるだけでその意味するところがガラッと変わり、スローガンが自分自身に跳ね返ってくる。
なるほど、たしかにその通りですよね。ハヴェルは当たり前のように通り過ぎてしまいがちなポイントに焦点を当て、その意味するところを突き詰めていきます。
そしてそこから国民が自発的に体制に貢献してしまうメカニズムを考察します。
自発的に体制に奉仕させるシステムのからくり
さらにハヴェルは、その記号が中身のない空虚なものであることだけでなく、目につかない存在になることの意味にも目を向けます。先の青果店店主の掲げたスローガンの効用について、こんなことも述べています。
青果店店主が公的に示した要求は一見したところ無意味であるように思われる。だがそうではない。人びとはそのスローガンに気づかない、だが気づかないのは、そのようなスローガンは他のショーウインドウにもあり、窓にも、屋根の上にも、電柱にもあり、いたるところにあるからだ。それは、かれらの日常の風景のようなものを形作っている。この風景は―全体としてよく意識されている。この巨大な風景の小さな一部となるものとして、この青果店のスローガン以外のものがあるだろうか?
青果店の店主が、あまり意識せずにスローガンを置いているのなら、ほかの店、ほかの職場の人々も、同じことをしているかもしれません。ただ「みんなやっているから」というだけの理由で。「みんながやっている」という意識の下で日常の風景が形づくられ、スローガンを通して誰もがゲームを受け入れ、みんなで権カを認めるよう互いに強制し合っている。そんな状況を生み出すこともまた、スローガンを置くことの効用です。青果店の店主は、体制の犠牲者である同時に、体制をつくる装置にもなっているのです。
このように体制から要求されている所作を自ら察知し、盲目的に行なってしまうことを、ハヴェルは「自発的な動き」と表現しています。平たく言うと、「忖度」や「空気を読む」ということになるでしょうか。この「自発的な動き」は、青果店の店主であれ、党の要職に就いている人であれ、立場に関係なく起こります。「イデオロギー」を受け入れることによって、全ての人が同じ状況に置かれ、体制に奉仕することになるのです。
立場にかかわらず、と考えているところに、ハヴェルの独自性を感じます。かれは、体制のことは批判するのですが、体制の中にいる個人を批判することはほとんどありません。かれ自身、「共産主義というシステムは憎んだけれど、共産党員を憎んだことはない」とも言っています。ですから、後にかれが大統領になった時、かつての共産党の関係者で、具体的な処罰を受けた人はほとんどいませんでした。支配集団に属する個人に罪があるのではなく、システム、制度そのものが問題なのだという一貫した考えがあったのだと思います。
NHK出版、阿部賢一『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」P31-33
青果店店主は犠牲者でもありながら同時に体制を作る装置になっているというのは非常に重要な指摘ではないでしょうか。
そして『「みんながやっている」という意識の下で日常の風景が形づくられ、スローガンを通して誰もがゲームを受け入れ、みんなで権カを認めるよう互いに強制し合っている。そんな状況を生み出す』という部分。
これはまさしく今も昔も変わらず日本で繰り広げられていることなのではないでしょうか。
「皆がやっているから」あるいは「他人に迷惑をかけるといけないから」という言葉を持ち出されるともはや有無を言わさぬ同調圧力が働き、それに従わぬ者は「非国民」扱いされてしまう。それは戦時中だけの話ではなく、今もなおそうであることはきっと皆さんも感じているかと思います。
ハヴェルはこうした「自発的な動き」が体制にとって非常に大きな役割を果たしていると指摘するのです。
良心と引き換えに自分の生活の安定を守ろうとする私たち
では、なぜ、「イデオロギー」はこのような力を持っているのでしようか。ハヴェルによれば、「イデオロギー」は、体制が目指すものと、人々の生が目指すものの間にある亀裂を隠し、ある種の「見せかけ」の世界を提供するからだと言います。青果店店主がショーウインドウに飾ったスローガンは、まさにこれに相当するのです。
このようにしてポスト全体主義体制は、人間が一歩踏み出すたびに接触してくる。もちろん、イデオロギーという手袋をはめて。それゆえ、この体制内の生は、偽りや嘘ですべて塗り固められている。官僚政府は人民政府と呼ばれる。労働者階級という名前の下で、労働者階級が隷属化される。(略)表現の不自由は、自由の最高の形態とされる。選挙の茶番は、民主主義の最高の形態とされる。(略)権力はみずからの嘘に囚われており、そのため、すべてを偽造しなければならない。過去を偽造する。現在を偽造し、未来を偽造する。統計資料を偽造する。全能の力などないと偽り、何でもできる警察組織などないと偽る。人権を尊重していると偽る。誰も迫害していないと偽る。何も恐れていないと偽る。何も偽っていないと偽る。
このような韜晦のすべてを信じる必要はない。だが、まるで信じているかのように振る舞わなければならない、いや、せめて黙って許容したり、そうやって操っている人たちとうまく付き合わなければならない。
だが、それゆえ、嘘の中で生きる羽目になる。
ポスト全体主義は、手袋をはめた見せかけの姿で人々の生に接触してきます。そして、その「嘘の生」をただ受け入れるだけで、体制を承認することになり、そのことが体制を体制たらしめるのだとハヴェルは考えています。
つまり、ポスト全体主義の本質は「嘘の生」という見せかけの世界であり、それは特定の権力者が支配する制度ではなく、そこに関係する誰もが多かれ少なかれ関与し、積極的にであれ、消極的にであれ、体制を承認してしまうような世界なのです。ハヴェルは、このような体制が確立してしまう背景には、「消費社会」の特性があると考え、「ポスト全体主義体制は、独裁と消費社会の歴史的遭遇という土台のもとで作り上げられたのである」と述べています。青果店の店主は、自分の良心のうずきを無視してスローガンを掲げることで、当局からの介入を逃れることができ、給料ももらえるし、休暇を使って海のある外国に行くこともできます。「良心」や「責任」という倫理的なものと引き換えに、「物質的な安定」を確保するのです。
今の生活に多少の不満はあるものの、給料が大幅に減ったり、自分の意図しない場所で働くのは嫌なので、文句はあるけれどとりあえず言うことを聞いて我慢するか―。
こうなると、なんだか急に青果店の店主が身近に感じられてきます。みなさんも、他人事とは思えなくなったのではないでしょうか。「自発的な動き」とは、個々人がそうしたほうがいいのではないかという空気が醸成されることであり、そのような空気が漂う背景には、今自分が享受している権利を失ってしまう不安があるのです。
ハヴェルの分析は、ポスト全体主義にとどまるものではなく、消費社会が過度に進んだ西側社会、つまり、現代の私たちの世界をも視野に入れています。それは全体主義における「権力」の分析をしていると同時に、社会における「カ」の相をも解きほぐそうとしているのです。
NHK出版、阿部賢一『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」P33-35
私たちは嘘の中で生きるしかなく、それに従うことで体制もより強化されていく。
ならばそれに反抗すればいいだけではないか。
いや、そうしてしまったら生活が失われる。日々の給料も、安定した生活も、レジャーに行くことさえもできなくなる・・・それなら・・・と私たちは屈してしまう。
この記事を書いている私もこれにはぐさっと来ています。これは現実的に考えてとてつもない問題ですよね。生活を失う危険を犯して反体制運動を続ける勇気が私たちにはあるでしょうか・・・
しかし、ハヴェルをはじめ多くの人たちがそうしてプラハで戦い続けていたのです。
もちろん、大部分の人は何もできない無力さにその生活を受け入れざるをえなかったそうです。しかし1989年のビロード革命の時にはそうした押さえつけられたエネルギーが爆発したのも事実。
たとえ少数であってもハヴェルのような人間がいたことで実際に世界は動いたのです。
『力なき者たちの力』ではこの後、「では私たちはどうしたらいいのか」ということを述べていきます。そして実際に彼がどのように行動していったかも私たちは知ることができます。
本当はそれらもじっくりご紹介したいのですが分量上それもできません。この先はぜひ実際に読んで頂けたらなと思います。そしてこの作品においては、『100分de名著』も非常におすすめしたいです。
ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』 2020年2月 (NHK100分de名著)
ハヴェルがどのようなことを述べているのかの解説も非常にわかりやすく、さらにチェコが辿ってきた歴史も知ることができます。プラハの春やビロード革命とは何だったのか。抑圧下の人々はどんな生活をしていたのかということを学べます。これは非常に素晴らしい1冊です。ハヴェルの『力なき者たち』には難しい箇所もいくつかあるので、先にこちらの『100分de名著』を読まれることをおすすめします。それほどわかりやすい参考書となっています。
ハヴェルの本を読んでいて思うのは、自由や文化が失われた監視社会の恐ろしさ、息苦しさです。
私は今、好きな本を読み、音楽や映画も楽しみ、自由に言葉を発することができます。しかし、もしそれらすべてが奪われてしまったら?生きる術も仕事も奪われてしまったら?
しかもそれへの不満すら声に出せない、いや、顔に出すことすらできない。
もしそれが密告されでもしたらすぐに監獄行きです。
いつどこに秘密警察がいるかわからない、隣人だって密告するかもしれない。誰も信用できない。
そんな生活が20年以上も続くとしたら私は耐えられるだろうか・・・
20年ですよ?普通に笑って楽しめる暮らしではなく、自由が失われた絶望の20年です。どれほどそれが長く感じるかと想像すると、戦慄するしかないです・・・
私たちの自由は当たり前のものではない。それが失われてしまってからではもう遅いのです。しかもそれは私たち自身の手で招いてしまうのかもしれないのです。その危険性をこの本で警告してくれます。
『力なき者たちの力』は今こそ読むべき名著中の名著です。
これはぜひともおすすめしたい1冊です。
以上、「V・ハヴェル『力なき者たちの力』チェコ大統領による必読エッセイ~知らぬ間に全体主義に加担する私たち」でした。
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