ドストエフスキー

ムムーロシアの文豪ツルゲーネフ

ツルゲーネフ『ムムー』あらすじ解説―農奴と子犬の切ない物語

この作品はツルゲーネフ作品の中でもトップクラスにドラマチックな作品なように私は感じます。

ゲラーシムの素朴な善良さ、そしてそれに対置される女地主や執事。

そして何より子犬ムムーとの心温まる日々。

ですが、そんな幸せな日々が女地主の横暴で不意に終わりを迎えます。

犬を殺せと命じられたゲラーシム。彼は一体どうするのか、街から一人離れて川に船を浮かべた彼はどうなってしまうのか、ムムーはどうなってしまうのか。

読んでいるこっちは恐ろしくて心臓がばくばくしてしまいました。

猟人日記ロシアの文豪ツルゲーネフ

二葉亭四迷で有名『あいびき』あらすじと感想~ツルゲーネフの『猟人日記』に収録された名作

『あいびき』は二葉亭四迷によって日本に紹介され、日本文学界に大きな影響を与えました。当時はドストエフスキーやトルストイよりも、ツルゲーネフがまずロシア第一の作家として日本では流行していました。

おそらく日本において最も知られているツルゲーネフ作品のひとつがこの『あいびき』であるのではないでしょうか。

短編ですので非常に読みやすいものとなっています。ツルゲーネフ入門には最適な作品かもしれません。その美しい世界観にぜひとも浸っていただけたらなと思います。

猟人日記ロシアの文豪ツルゲーネフ

ツルゲーネフの代表作『猟人日記』あらすじと解説~ツルゲーネフの名を一躍文壇に知らしめた傑作

『猟人日記』ではツルゲーネフの芸術性がいかんなく発揮されています。彼の自然に対する美的センスは並外れたものがあるようです。

また、この作品は彼の幼少期、虐げられた農奴の姿を目の当たりにしていたことも執筆の大きな要因となっています。

そしてこの『猟人日記』によってロシア社会は大きな衝撃を受け、これを読んだ皇帝アレクサンドル2世が農奴解放令の布告を決心したとも言われています。

ツルゲーネフを代表する芸術作品としてだけではなく、ロシア社会の実態を捉えたという点でもこの作品の持つ意味は大きなものであると言えそうです。

ヴィアルドーロシアの文豪ツルゲーネフ

ツルゲーネフとヴィアルドー夫人の宿命の恋~ツルゲーネフの運命を決めたオペラ女優の存在

ツルゲーネフは大地主の御曹司でしかも容姿端麗。文壇のスターとして活躍し、さらに社交界では軽妙洒脱な話術や抜群の知性で伊達男として通っていました。これはモテないわけがありません。これはドストエフスキーと比べても興味深いです。彼とは真逆のモテっぷりです。ツルゲーネフは若い頃から恋多き男でした。

しかし、そんな彼でしたが生涯結婚することはありませんでした。

彼には生涯にわたって愛し続けた一人の女性がいたのです。

それがポーリーヌ・ヴィアルドーというオペラの歌姫だったのです。

この記事ではそんなツルゲーネフの恋についてお話ししていきます。ドストエフスキーとの比較も興味深かったです。

ロシアの文豪ツルゲーネフ

ツルゲーネフ側から見たプーシキン講演~ドストエフスキーとの最終決戦の結末はいかに!?

1880年、ツルゲーネフはモスクワでプーシキン像除幕式の記念講演に招待されます。この講演会はドストエフスキーも招待されていて、最晩年の2人が直接その文学論を戦わせた歴史的な一日として有名です。

ドストエフスキー伝記や参考書ではこのプーシキン講演がドストエフスキーの名声の絶頂として描かれることが多く、ツルゲーネフはその引き立て役、あるいは敵役として描かれがちです。

そのためドストエフスキー側からツルゲーネフを見るとどうしても偏ったものになってしまいます。

というわけで今回はツルゲーネフ側から見たプーシキン講演を見ていきたいと思います。

ロシアの文豪ツルゲーネフ

ツルゲーネフとドストエフスキー『悪霊』の関係~芸術家ツルゲーネフの粋な行動とは

ドストエフスキーは自身の作品『悪霊』でツルゲーネフを風刺したカルマジーノフという人物を描き、こっぴどくやっつけることになりました。

このように風刺されるというのはツルゲーネフにとってもかなりの痛手となったと思われます。

ですが彼は個人的な関係を超えて芸術を愛します。

ドストエフスキーとは仲違いしてしまいましたが、彼の作品についてはその価値を十分に評価しているのです。そして公正にもフランスの作家に彼を紹介するということまでしているのです。これは芸術を愛するが故に行われた尊敬すべき行動だと私は思います。

ロシアの文豪ツルゲーネフ

ロシア文学史に残るドイツでのドストエフスキーとツルゲーネフの大喧嘩

1845年に初めて顔を合わせ、間もなく犬猿の仲となったドストエフスキーとツルゲーネフ。

彼らの因縁は2人の最晩年まで続くことになります。

そんな2人が決定的な衝突をした有名な事件が1867年、ドイツのバーデン・バーデンという世界的に知られる保養地で起こることになりました。

この記事ではそんな二人の衝突についてお話ししていきます。

ロシアの文豪ツルゲーネフ

スラブ派・西欧派とは?ドストエフスキーとツルゲーネフの立場の違い―これがわかればロシア文学もすっきり!

ドストエフスキーやツルゲーネフ、トルストイの作品や解説を読んでいてよく出てくるのがタイトルにもあるスラブ派・西欧派という言葉。

当時のロシア文学は純粋な娯楽や芸術としてだけではなく、国や人間のあり方について激論を交わす場として存在していました。

彼らにとっては文学とは自分の生き方、そして世の中のあり方を問う人生を賭けた勝負の場だったのです。

その尋常ではない熱量、覚悟が今なお世界中でロシア文学が愛されている理由の一つなのではないかと私は考えています。

ロシアの文豪ツルゲーネフ

ツルゲーネフとドストエフスキーの出会い―因縁のはじまり

ツルゲーネフとドストエフスキーの不仲は有名な話となっています。

それは文学における思想の違いだけでなく、性格の違いや個人的ないざこざも絡み、二人の最晩年までそのライバル関係は続くことになりました。

今回の記事ではそんな二人が初めて出会ったシーンを紹介していきます。

時は1845年、ドストエフスキーがデビュー作『貧しき人びと』を完成させ、批評家ベリンスキーに激賞されたことで一躍文壇のニュースターとなった頃のお話です。その頃、ツルゲーネフは期待の若手としてすでに文壇で活躍し始めていました。

トゥルゲーネフ伝ロシアの文豪ツルゲーネフ

ツルゲーネフの青年期に起きた海難事故―若き文豪の意外なエピソード

今回紹介するお話は「若い日に出合った海難事故に際しての「大きな坊ちゃん」らしい無様さ」と伝記作家アンリ・トロワイヤが形容したエピソードになります。

この海難事故はツルゲーネフが20歳になる年のエピソードです。

若い頃の話ですので伝記でもかなり早い段階でこのエピソードと対面することになりました。

初めてこの出来事を知った時はかなり驚きました。ドストエフスキーのライバルと呼ばれるほどの大文豪がこんな若き日を過ごしたというのは衝撃でした。