ボスニア・クロアチア編

ボスニアボスニア・クロアチア編

ボスニア紛争経験者ミルザさんの物語(前編)~紛争の始まりと従軍経験 ボスニア編⑦

わかりやすい構図で語られる、紛争という巨大な出来事。

ですが、事実は単にそれだけでは済まされません。民族や宗教だけが紛争の引き金ではありません。あまりに複雑な事情がこの紛争には存在します。

わかりやすい大きな枠組みで全てを理解しようとすると、何かそこで大切なものが抜け落ちてしまうのではないだろうか。なぜ紛争が起こり、そこで一体何が起こっていたのか。それを知るためには実際にそれを体験した一人一人の声を聞くことも大切なのではないでしょうか。

顔が見える個人の物語を通して、紛争というものが一体どのようなものであるのか、それを少しでも伝えることができたなら幸いです。

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サラエボ市街地にてボスニア紛争を学ぶ~たった1本の路地を渡ることすら命がけだった日々 ボスニア編⑥

サラエボは1992年4月から1995年10月まで約3年半の間、セルビア人勢力に包囲され、攻撃を受け続けました。その間の犠牲者はおよそ12000人。

1990年生まれの私は当時2歳。その頃の記憶は当然ありません。ですが、平和に暮らしていた私の幼少期に、遠く離れたボスニアでは悲惨な紛争が続いていました。それも多様な民族や宗教が共存していたその国で。

文化の多様性がその国の持つ良さであったはずなのに、それが瞬く間に崩壊してしまった。

一体、ここで何が起こってしまったのでしょうか。

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サラエボ旧市街散策~多民族が共存したヨーロッパのエルサレムの由来とは ボスニア編⑤

2019年4月28日。

この日もBEMI TOURのミルザさん、松井さんと共にサラエボを散策。

この日はサラエボウォーキングツアーということで、サラエボの文化と歴史、そして紛争当時のことを学ぶ半日のスケジュール。

この記事ではサラエボの文化と歴史に焦点を当てて述べていきます。

サラエボ事件で有名なラテン橋や、日本ではなかなか見ない飲み方のボスニアコーヒーもご紹介します。

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サラエボオリンピック競技場の墓地とヴレロボスネ自然公園と~平和の象徴が紛争犠牲者の墓地に… ボスニア編④

1984年の冬季オリンピックの会場がまさしくここサラエボ。

平和の祭典オリンピックが行われてから10年と経たない内に、この地は紛争へと突入していくことになってしまったのでした。

紛争中、サラエボ市内では多くの犠牲者を出すことになりました。そのためもともとあった墓地区画に遺体を埋葬しきれなくなるという事態に。

そこで急遽オリンピック競技場のサブグラウンドを墓地として利用することになったのでした。

平和の祭典の会場がそのまま紛争の犠牲者となった人たちのお墓となっている。こんな皮肉があっていいものなのだろうか。

私はなんともいたたまれない気持ちで目の前のお墓を呆然と見続けたのでした。

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ボスニア紛争とトンネル博物館~サラエボの奇蹟!市民の命をつないだトンネルを見学 ボスニア編③

この記事からボスニア紛争、特にサラエボ包囲についてお話ししていきます。

私がまず向かったのはトンネル博物館。街を包囲されたサラエボ市民が唯一国外とアクセスできた、文字通り市民の生命線となった場所です。

そしてそこに向かう途中、スナイパー通りも通りました。ここはサラエボ包囲中、最も危険な通りの一つでした。

紛争経験者のガイドさんから当時のお話を聴きながら私は現地を歩きました。

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ボスニアの首都サラエボに到着~ボスニアはどんな国? ボスニア編②

2019年4月26日。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの空港に着陸。

サラエボは街の周囲を山で囲まれた街。

街からすぐそこに豊かな自然があります。

ですが同時にこの地形こそサラエボの人々を苦しめることとなってしまったのでありました

この記事ではボスニア紛争についてこれからお話ししていく前に、ボスニア・ヘルツェゴビナという国のあらましについてお話ししていきます。

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ウィーンからサラエボへ~ぼくがボスニアを選んだ理由 ボスニア編①

2019年4月26日。私はウィーンからボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボに向かいました。

旅の計画を立てるにあたってこの国に関心を持ったのも、ボスニア紛争が宗教と民族の争いで、仲良く暮らしていた隣人が急に殺し合うようになったのだと教えられた記憶があったからでした。

なぜ人間はこうも簡単に人を憎むことができるのだろうか。

なぜ仲のよかった隣人を宗教を理由に殺すことが可能だったのか。

宗教は人を残酷な行動に駆り立てるものなのだろうか。

民族の対立は人間に宿命づけられた地獄の入り口なのだろうか。

このような疑問が生まれたからこそ、私はボスニアを訪ねることに決めたのでした。