上田隆弘『劇場都市ローマの美~ドストエフスキーとベルニーニ巡礼』を執筆中です
現在当ブログでは『ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行』という題の旅行記を更新中です。
こちらの更新が終わり次第、次の『劇場都市ローマの美~ドストエフスキーとベルニーニ巡礼』へと入っていきます。あと二カ月弱はかかるのではないかと思われますが、現在鋭意執筆中でございます。
ですが一応、あらかじめこの旅行記の趣旨をここに記しておきたいと思います。私が「ローマとドストエフスキー、ベルニーニ」というテーマに関心を持つようになったのは次のような流れがあったのでした。
ドストエフスキーは1863年にスースロワという女性と西欧旅行の旅に出掛けています。
この旅で二人はパリ→バーデン・バーデン→ジュネーブ→トリノ→ジェノア→リヴォルノ→ローマ→ナポリ→リヴォルノ→トリノ→ベルリンを巡りました。
ドストエフスキーはこの旅の中でローマに立ち寄り、サンピエトロ大聖堂やコロッセオを見物しています。
私はドストエフスキーがこれらローマの象徴についてどう思うか非常に興味がありました。
と言いますのも、ドストエフスキーはローマカトリックを強く批判していました。ですがバチカンはミケランジェロやベルニーニといった天才たちによって作られた最高の芸術都市です。しかもベルニーニはローマを劇場的な芸術の街へと変貌させました。ベルニーニについては当ブログでもこれまで紹介してきました。
ベルニーニは劇場的、演劇的効果を極めた芸術家です。彼の建築や彫像には観る者を魅了する圧倒的な表現力があります。それに対しドストエフスキーも実は演劇的効果を極めた作家として知られています。このことについてはジョージ・ステイナーの『トルストイかドストエフスキーか』で述べられていました。なんとドストエフスキーはシェイクスピア的な作風の持ち主なのです。特に『カラマーゾフの兄弟』は『リア王』的な悲劇で、そのシナリオだけでなく表現技法そのものがシェイクスピア的なのだそうです。
そう考えるとローマカトリックが嫌いなドストエフスキーではありますが、その本山サンピエトロ大聖堂やローマのベルニーニの舞台芸術に心奪われずにいられるだろうかという興味が浮かんできたのでありました。
このことについてはドストエフスキーの1863年9月18日ストラーホフ宛ての書簡が遺されています。彼は長い手紙の後に、追伸という形でローマについて言及しています。
妙でしょう、ローマから手紙をだしているのに、ローマのことが一言もないのですからね。しかし、いったいなにを書ことができましょう?ああ!はたしてこれが手紙に書けるでしょうか?一昨日の夜到着して、昨日は午前中に聖ペトロを見物しました。ニコライ・ニコラエヴィチ、背筋に寒けを感じるほど強烈な印象でした。今日はForumとその廃墟を残らず見物しました。それから大劇場!いやはや、貴兄に何をいうことがありましょう……河出書房新社、米川正夫訳『ドストエフスキー全集16』P442
たったこれだけです。
1862年の旅行記『冬に記す夏の印象』であれだけ饒舌だったドストエフスキーが、あのローマについてたったこれしか述べないのです。これは逆に不思議ですよね。
これは完全に私の想像なのですが、ローマカトリックに対する嫌悪感とベルニーニの演劇的芸術の魔力の恐るべき葛藤がドストエフスキーの中に生まれていたのではないでしょうか。
おそらく上の言葉からしても、ローマの魅力にドストエフスキーはあっという間に魅了されてしまったことでしょう。ですが冷静になって考えるとその裏側も考えてしまう・・・『カラマーゾフの兄弟』であれだけカトリック批判をやってのけたドストエフスキーです。しかも自身が演劇的手法を用いる作家ですから、ベルニーニの意図するところも見抜いていたことでしょう。
そうなってくると「そう簡単には魅了され続けはせんぞ」という思いが浮かんできてもおかしくないかもしれません。
あるいはスースロワとうまくいっていないことから最悪の精神状態に落ち込み、そんな状況では最初の感動はどこへやら・・・といったことになっていたのかもしれません。
これらはあくまで私の想像ですが、ドストエフスキーがローマにも来ていたというのは非常に大きな意味があるのではないかと思います。
というわけで私はベルニーニの街ローマに強い関心をもったのでありました。
この『劇場都市ローマの美~ドストエフスキーとベルニーニ巡礼』ではベルニーニの生涯に沿ってその作品を順次見ていき、その上でドストエフスキーと芸術都市ローマについて考えていきたいと思っています。
私もローマの魅力にすっかりとりつかれた一人です。ローマの素晴らしき芸術たちの魅力を余すことなくご紹介できるよう執筆していきます。ぜひご期待ください。
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