『箱にはいった男』『すぐり』『恋について』―チェーホフの短編三部作について

チェーホフとドストエフスキー

『箱にはいった男』『すぐり』『恋について』―チェーホフの短編三部作について

チェーホフは若い頃から膨大な量の短編小説を書いてきました。そして1880年代末頃から重厚な中編小説も書くようになりましたが、基本的にはチェーホフは連続小説を書かず、一作品で完結する物語を書き続けていました。

そんなチェーホフが晩年に近づこうという1898年(チェーホフは1904年に44歳で亡くなっています)、短編三部作と呼ばれる続き物の短編小説を書くことになりました。

それが『箱にはいった男』、『すぐり』、『恋について』という作品でした。

この作品群についてチェーホフ研究者佐藤清郎氏は次のように述べています。

『箱に入った男』『すぐり』『恋愛について』の三篇は、今日、研究者のあいだで普通、短篇三部作と呼ばれている。これらの作品が発表された年に、ア・イズマイロフという批評家が「株式報知」紙(No二三四、一八九八年八月二十八日)の「文壇展望」に次のような文章を書いている。

「『すぐり』と『恋愛について』が発表されてからは、チェーホフ氏はもはや以前のような客観主義の芸術家ではない。しばしば無思想の告発を受けた以前の冷淡さは跡方もなくなった。

語り手の姿のうしろの至るところに、人生の不条理を心痛く感じ取り、意見を述べずにはいられない作者の主観が見えている。チェーホフ氏の心には、ゴーゴリ、ドストエフスキー、レスコーフからいまも達者なレフ・トルストイに至るまでの、かつてのわが国の大作家たちの多くが体験した転機が始まったように思える。……芸術的課題のほうは二の次となり、理性が倫理や宗教の問題の解決を志向している。客観的で物静かな現実描写は、人生の悪の心騒ぐ哲学的考察に席を譲っている。チェーホフ氏は物語のなかで、語り手の口を借りるか、もしくは直接、自分自身の口で、憤りや悲しみを吐露している」

これはいまも注目していい発言であり、チェーホフの最後の転機を明確にとらえている。

筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ芸術の世界』P285-286

このブログでも紹介した『ともしび』や『決闘』、『退屈な話』などの結末は「明確な答え」を読者に与えず、「問題解決」よりも「問題提起」を重んじた物語となっていました。

「人生は私にはわからない」という結末は上の引用にありますように、ある層からは批判を受けることになってしまいました。

しかしこの三部作ではそのようなチェーホフとは違ったチェーホフが現れます。彼の中で何か言わずにはいられないものが芽生えだしてきたのです。

ロシアの人々に巨大な人生問題を問いかけたゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイというロシア文学界の重鎮たちの系譜にチェーホフが連なりだした契機となった作品群がこの短編三部作と言えるのです。

引き続き佐藤氏の言葉を聞いていきましょう。

三作ともパセティックと言っていいほど高い響きを持っており、鋭く、哀しく、心痛く私たちの心を打つ。登場人物も重なり合い、プロットの構成も同型である。

いずれもまず聞き手と語り手が登場し、それぞれの気分にふさわしい自然と環境のなかで、人間の生きざまについて、きわめてシリアスな問題を含む物語を語るという形式を取っている点も共通している。

人物は教師のブールキンと獣医のイヴァーン・イヴァノヴィチで、地主アリョーヒンは『すぐり』と『恋愛について』にのみ顔を出し、特に後者では主役をつとめている。副次的人物では、美人の小間使ぺラゲーヤが、『すぐり』にも『恋愛について』にも登場している。

中心になるテーマとしては、「箱」(頑迷な保守性)、「富」「愛」が選ばれており、語りのなかの中心的人物も友人、肉親、語り手本人となっている。つまり、しだいに中心が身近かになっている。
※適宜改行しました

筑摩書房、佐藤清郎『チェーホフ芸術の世界』P286

この三部作で語られるテーマ「箱」「富」「愛」はここから最晩年に至るまでチェーホフ作品を貫く中心テーマとなっていきます。

特に「箱」のテーマはチェーホフらしさが前面に出る非常に重要なものとなっています。これは当時のロシアの状況を風刺するものでありましたが、これはそのまま現代の日本にもあてはまるかもしれません。現代日本を生きる私たちにとってもこれらの作品は痛烈なメッセージを発しています。

次の記事から『箱にはいった男』『すぐり』『恋について』を紹介していきます。

日本ではあまりメジャーではないかもしれませんが、チェーホフを知る上で非常に重要な作品です。ぜひ引き続きお付き合い頂ければと思います。

以上、「『箱にはいった男』『すぐり』『恋について』―チェーホフの短編三部作について」でした。

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