殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ~仏教の不殺生主義―お釈迦様のことばに聴く
一二九 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
一三〇 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
一三一 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。
岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P28
今回の箇所は仏教の基本思想である不殺生について書かれたことばです。
仏教が「生き物を殺してはいけない」という教えを説くのは有名ですよね。
だからこそ現代日本でも精進料理には肉類が入っていません。
基本的には仏教は菜食主義になっています。
現代でも東南アジア、特にタイやミャンマーなどを中心とする南伝仏教国では今でもこの決まりを厳密に守っています。
ですが、日本ではその様子が異なっています。
特に私の属する浄土真宗ではかなり毛色が違っています。
なんと、私たち浄土真宗は「肉食妻帯」が認められた仏教なのです。
つまり肉を食べてもよい。そして妻を持ってもよいという仏教なのです。
「これではもう仏教とは言えないではないか!?」
そう思われた方もおられるかもしれません。
実はこの問題は「お坊さんなのになぜ髪があるの?」という問題と切っては切れません。私のブログの第一弾の記事はまさにこの問題から始まったのでありました。
この記事において「浄土真宗の僧侶はお坊さんでありながらお坊さんではない」ということをお話しさせて頂きました。
日本の仏教、特に浄土真宗はお釈迦様が2500年前にインドで説かれた仏教とはかなり異なったものになっているのです。
これは時代の流れや地域の違いによる文化の違いです。宗教や文化は時代や地域によって姿が変わっていきます。どちらが良くてどちらが悪いということはありません。
むしろその違いを比べてみることでそれぞれの特徴が見えてきます。
なぜ浄土真宗は肉食妻帯を許すようになったのか。これは単なる開き直りではありません。今回はお話しできませんがいずれ改めてお話しさせて頂きたいと思います。
今回はあえて「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」ということばから、浄土真宗の肉食妻帯について少しお話しさせて頂きました。
「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」という今回のことばでは他にもお話ししたいことがたくさんあります。
たとえば、
『「殺してはならぬ」ということがわかっていても人は争いはやめられないではないか』
「もし自分が殺されそうになったら自分の身を守るために相手を殺してもいいのか」
「そもそも自分が安穏に暮らしていけるのは誰かの犠牲や不幸があるからではないか」
「肉を食べなくとも野菜を生産する過程で虫を殺しているし、そもそも目に見えないほどの微細な生物まで殺さずに生きていくなど本来人間には不可能ではないか。」
お釈迦様の教えを厳密を守ろうとすると現実生活上さまざまな矛盾が生まれてきます。
それに対して私たちはどう考えるのか。それもお釈迦様のことばを聴く大切な意義です。
今回は皆さんに疑問を起こさせるようなことをお話ししてしまいましたが、ぜひ仏教や浄土真宗に興味を持って頂ければ嬉しく思います。
以上、「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ~仏教の不殺生主義―お釈迦様のことばに聴く」でした。
『ブッダの真理のことば』はまだまだご紹介したい言葉がありますが一旦ここで一休みとさせて頂きます。
次の記事からまた「親鸞とドストエフスキー」の記事を再開します。ここからは仏教思想ともつながりを感じられるロシアの作家チェーホフを紹介していきます。
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