皆様こんにちは。
前回の記事で「ナマンダブツ」は漢字で書くと「南無阿弥陀仏」。
そしてその意味するところは「阿弥陀仏を深く信じます」という意味であるところまでお話しさせていただきました。
しかし皆さんの中には次のような疑問を抱かれた方もおられるのではないでしょうか。
「ナマンダブツの意味はわかったけど、結局それにどういう意味があるの?」
いかがでしょうか。かくいう私も浄土真宗の教えを学ぶ上でまずここにひっかりました。
「阿弥陀仏を深く信じます」という意味を持った「ナマンダブツ」を称えなければならない。
それは理解できた。
でも、なぜそもそも「ナマンダブツ」を称えなければならないのだろう。
そうです、「ナマンダブツ」の言葉の意味を知ったところで結局「ナマンダブツ」とは一体何なのかということの答えにはなっていないのです。
なぜそれを称えなければならないのか。
これが「ナマンダブツ」を知る上で非常に重要な問題です。
というわけで今回の記事ではなぜ「ナマンダブツ」を称えなければならないのかということに焦点を当ててお話ししていきたいと思います。
・・・とはいえ、これを浄土真宗の教義に沿って厳密にお話ししていくとなるととてつもなく複雑で、おまけにものすごい長文になります。
大学院生時代、「南無阿弥陀仏」とは何かを研究した時、膨大な資料に当たらなければならなかったことを今でも思い出します。
「ナマンダブツ」というお念仏を一言で解説するのは非常に難しいことではあるのですが、ここではざっくりとその概要を私なりの視点で述べさせていただきたいということだけお先にご注意願います。
では早速始めていきましょう。
「ナマンダブツ」を理解するにはまず私の所属する浄土真宗の基本理念を知ることが最も重要な鍵となります。
その基本理念とは、
「念仏もうさば、仏になる」
という、極々シンプルなものです。
つまり、「ナマンダブツ」というお念仏を称えれば、あなたも仏様になりますよということを浄土真宗では教義の根本に据えているのでございます。
浄土真宗ではお念仏を称えたならば、全ての人が死後お浄土へと旅立ち、そこで仏様となられます。
ここまでは他宗派さんにおけるお念仏のはたらきと相違はございません。
しかし浄土真宗の開祖親鸞聖人はここからさらに驚くべき飛躍を見せます。
親鸞聖人はこう述べました。
「南無阿弥陀仏を称えることで今現在この身このままで仏様の救いにあずかるであろう」
現代を生きる私たちにはあまりピンと来ないかもしれませんが、当時これはお念仏の常識を打ち破るとてつもない発想でした。
何がとてつもなかったのかと言いますと、先ほども申しましたようにお念仏というのは基本的に死後お浄土に生まれるために称えるものでありました。
お念仏が日本において盛んに称えられるようになったのは日本史の教科書でもお馴染み、平安時代に活躍した源信僧都の影響が大きいと言われております。
源信は著書『往生要集』で地獄の有様をあまりにもリアルに描写し、貴族や人々を震え上がらせました。

その描写を基にした地獄絵も多数作られるようになり、人々は死後地獄へは行きたくないという思いでそれこそ地獄に堕ちたような恐怖を味わうことになりました。
しかし源信は地獄の描写の後、しっかりとお浄土へと往生する手段を懇切丁寧にこの書物に記しております。
だからこそこの書物は『往生要集』という名を冠しているのです。(源信としてはお念仏の素晴らしさを一番に広めたかったのでしょうが、地獄の描写があまりにも強烈だったため人々にはそちらの印象しか残らないという皮肉な事態も起こったようです)
そしてここで源信が最も力を込めて力説したのが「南無阿弥陀仏」というお念仏を称えることでした。
「お念仏をすればあの世で地獄に堕ちることもなく、極楽浄土へと行けますよ。安心してお念仏して暮らしなさい。」
これが日本でお念仏が爆発的に広がった理由のひとつだと言われています。
地獄の恐ろしさに貴族たちはこぞってお念仏を称え、阿弥陀仏を本尊としたお堂を次々と建立することになりました。有名な平等院鳳凰堂もそのひとつです。
さて、話は戻りますが、このように本来お念仏は死後お浄土へ往生するために称えるべきものであるというのが常識でした。
しかし親鸞聖人は「死後ではなく、今救いにあずかるのだ」と、「今」を殊更に強調します。
ここに浄土真宗の独自性があります。
あくまで他宗派さんにおけるお念仏というのは、修行のひとつとして考えられています。
山に籠って滝に打たれたり、朝から晩まで厳しい修行ができない一般の人々のために阿弥陀仏様が与えてくださった行(ぎょう)がお念仏なのです。
あまり皆さんには実感も湧かないかもしれませんが、実はお念仏も修行なのです。
その行を行うことで功徳(良き行いによって生まれる良い力)を積み、お浄土へ行くという修行の流れがお念仏にもあるのです。
死後のために、生きている今お念仏を称えて功徳を積む。
これが基本的なお念仏の意味です。『「ナマンダブツ」とは何?』の第一の答えはここにあります。
しかし親鸞聖人における念仏の意味は、それにとどまらず「死後を待たずとも、今あなたは救われている」というところにあります。
はてはて、これは一体何を言わんとしているのでしょうか。
この問題は非常に複雑です。これまで多くの先達も頭を悩ませてきた難問です。
「今すでにあなたは救われています」
これは強烈なメッセージです。
私たちは「救い」を何かを達成した後に得られるものだと考えがちです。
しかし「救い」ははるか彼方にあるものではなく、ましてや死後を待たなければならないというものではありません。
親鸞聖人は「私たちはこの身このままですでに仏様のはたらきに包まれている」と述べています。
そしてお念仏はそれを自覚し、感謝するために称えるものであると私たち浄土真宗の教えでは伝えられています。
もちろん、他にもお経の中にお念仏の効能はいくつも説かれています。
お念仏を称えればこんないいことがありますよということは述べようと思えばいくつも出てきます。
しかし浄土真宗の根幹を知る上ではお念仏の「今現在の救い」を理解するのが最も重要ではないかと思い、お話しさせて頂きました。
死後のために積む修行としての「ナマンダブツ」。
今この身このままで仏様のはたらきに包まれていることを自覚し感謝する「ナマンダブツ」。
これが他宗派さんと浄土真宗のお念仏の最も顕著な違いなのではないかと私は思います。
さてさて、ここまで長々とお話しして参りましたが「ナマンダブツ」とは一体何なのかということがおぼろげながらも見えてきましたでしょうか。
浄土真宗におけるお念仏は死後お浄土へ往生する行であると同時に、今現在の救いを自覚し感謝するものであるというのが今回の問いの答えとなります。
いかがでしょうか。
おそらく皆さんの頭の上にクエスチョンマークがいくつも浮かんではいないでしょうか。
もしそうだとすればそれは私にとってはとても嬉しい兆候であります。
なぜならそれは仏教に興味を持っていただけたということだからです。
興味があるからこそ、「それはなぜ?」という問いが生まれてきます。
あるひとつのことを知ると、その背景にあることも知らなければならなくなります。
今回の問いにしても、「ナマンダブツ」は自覚と感謝から称えるものということがわかったとしても、「ではなぜお葬式でお念仏するのか」、「お仏壇の前やお墓で称えるのはなぜなのか」、「いや、そもそも今この身このままで救いにあずかるというのはどういうことなのか」・・・・などなどそれこそ問いは無限に連鎖していきます。
これまで述べてきた「本日のお題」のコーナーではなるべく短く簡潔に仏教のそもそも何を問うていくのを旨としてきました。
そのためこのコーナーで「ナマンダブツ」とは何かを解説するにはここまでが限界となります。
「ナマンダブツ」とは何か、そしてそれによる救いとは一体何なのか。
救いというと私たちには縁遠い出来事のように感じられますが、もし言い方を変えることを許されるならば「自分が『良し』とされる感覚、人生肯定の感覚」と言うことも出来るでしょう。
だとすれば親鸞聖人の「今この身このままでの救い」もあながち現代の私たちとも無縁であるとは言えないのではないでしょうか。いや、むしろ混乱と抑圧に溢れた病める現代にこそ生きてくる教えなのではないかと私は確信しております。
いずれ「本日のお題」とは別にもっと奥まで突っ込んだ「仏教コラム」を連載できればと考えております。そこで改めてお念仏と救いの関係、浄土真宗の根幹についてお話しさせて頂ければなと考えております。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
合掌
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